平成から令和の時空の狭間で天皇の譲位を考える

今上陛下が平成31年4月30日に譲位され、5月1日に皇太子殿下即位されて令和に改元される時も近づいた今、[過去記事]の一部を再掲しながら、天皇の譲位について考えてみたいと思います。

(承明門を通して望む紫宸殿 京都御所にて撮影)

(承明門を通して望む紫宸殿 京都御所にて撮影)

日本国の主権者である日本国民のアイデンティティの支柱として、高度の協調社会を維持する日本国民の統合の象徴として、そして世界から尊敬を受ける日本国民の精神の規範として、歴代の天皇の貢献は計り知れないものと考えられます。何よりも、今上天皇陛下におかれましては、法遵守の高潔な精神に基づく国事行為の滞りない遂行、国民の安寧と幸せを最優先する宮中祭祀の厳行、国民への奉仕のための頻繁な行幸、終わることのない戦没者の慰霊という形で、日本国民統合の象徴としてのお務めに御身を削られながら尽くされたと拝察します。このような背景の中で、皇室の伝統の継承について私たち国民は真剣に考える必要があると考えるところです。

[象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば]において、今上陛下が主張されたことは、現代社会においてお務めを精一杯尽くされた実務者としての観点からの皇室制度に対するマクロな御意見です。憲法の制約条件(天皇は国政に関する権能をもたない)と皇室の伝統の継承という前提条件の下で「皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていく」ためには、(1)天皇が健康理由により全身全霊での公務遂行が困難となることにより社会が停滞して国民に不利益が及ぶ事態と(2)天皇の崩御に伴う皇室の私的行事により次代皇室の公務遂行が支障をきたす事態を回避することが重要であるというものでした。

このうち(2)については、将来に殯と喪儀の対象となる今上陛下ご自身が公式に御意思を表明されることにより、少なくとも今上陛下に限定して行事を簡素化するオプションを宮内庁が検討することが可能になりました。宮内庁は、皇室の承認の下に、妥当な案を提示して国民の理解を得る必要があると考えます。もちろん、簡素化するにせよ、現在の行事内容が将来いつでも再現できるような体制を保つ(情報を保存する)ことは絶対的な必要条件となります。

国民的な議論が必要となるのは(1)の事態を回避するための方策です。今上陛下のお言葉を素直に解釈させていただくと、事態の回避策として、今上陛下一代にとどまらず、将来にわたって安定的に適用できる措置が必要であるとのご認識であると推察しましたが、今回の譲位にあたって国会が制定した特例法は一代限りという制約がつくものでした。これに対して、政府は「将来の先例となり得る」との見解を示しています。この措置を考える上で、主権者である国民に必要不可欠なことが、今上陛下の「我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ」というお言葉にある前提条件を正確に認識すること、換言すれば、過去における天皇の退位(譲位・廃位・崩御)の歴史の事実を正確に認識することであると考えます。

国事行為に際して法の重要性を深くご認識されている今上陛下が限度一杯に表明されたお言葉に対して、明らかに認識不足の主張がマスメディアを通して多く流布されました。また、今上陛下に関連して「生前退位」なる不謹慎な用語をはばからずに使ったことも許容できないことでした。「退位」で十分に意味が通じる事案に対して、わざわざ「生前」という言葉を追記することは、その対立概念である「死後」という不吉な状況を不必要に連想させるものです。これは【強調の誤謬 accent fallacy】と呼ばれる誤りです。例えば、老人と会話した直後に「老人と生前に会話した」などと言えばそれは大変な失礼にあたります。「生前」という言葉はまったく不必要なのです。このような非常識を何とも思わない人物がわけのわからない倫理を振りかざして議論に参加してたのは極めて深刻であったと考えます。

重要なことは、いまや、日本の皇室の伝統は、それこそ日本人だけのものではなく、人類の文化遺産とも言える奇跡の産物であると言えます。世界の争いの原因である力で掴み取る覇道とはまったく異なる、協調の規範によって運営される皇道が、人類の歴史において類を見ない謙譲の時空を創り上げてきたのは厳然たる事実であると考える次第です。一貫したDNA(Y染色体)を根拠とする象徴的存在がけっして私利を追及することなく身を削りながら国民の安寧と幸せを祈る特異な文化は、小石が一枚岩となり苔が生えるまで八千代(やちよ)に継続する価値があると私は考えます。

もちろんこの考えは私個人によるものであり、天皇が国民の象徴であるためには国民の総意によってその行動が規定されることになります。そこで、客観的事実を少しでも多くの方々に共有していただくために、天皇の退位に関するデータを整理して示したいと考えます。皆様の今後の意思決定の一助になればと考える次第です。

(長期間にわたり「即位の礼」が行われた京都御所の紫宸殿)

(長期間にわたり「即位の礼」が行われた京都御所の紫宸殿)

天皇は、先代の天皇から皇位を継承し、その事実を宣言し、天皇としての公務を行い、最終的に退位することになります。このうち、皇位を継承して天皇の位に就くことを「践祚」と言い、践祚の事実を広く公表することを「即位」と言います。「在位」は践祚から始まり退位で終わります。

退位の形式としては、「譲位」「廃位」「崩御」の3種類があります。譲位は、自らの意思で皇位を後継に譲ることであり、過去124例の皇位継承のうち、57例が存在します。廃位は、皇位継承の権利者の考えによって皇位が移動することであり、過去に淳仁天皇と仲恭天皇のケースの2例が存在します。また、崩御による退位は65例が存在します。つまり、マクロな観点から言えば、退位の約半数が譲位によるもので、約半数が崩御によるものであると言えます。

譲位および廃位の理由を大別すると、次の4つのパターンが存在します。

(1)男系女性天皇が後継の男系男性天皇に皇位を譲る
(2)心身の健康上の理由で皇位を譲る
(3)院政を行うために意図的に皇位を譲る
(4)政局により意に反して皇位を譲る

複合的な理由も考えられますが、通説を踏まえた上であえてそれぞれの譲位の行為を一つの理由に集約すると、あくまで私の見立てでは、(1)6例、(2)13例、(3)24例、(4)16例、が存在します。(1)については、もともと中継ぎとして践祚した女性天皇が、後継の男性天皇の成長を確認して、真の意味での譲位を行ったものです。そもそも譲位の歴史は、このパターンから始まりました(皇極天皇の譲位)。(2)については、女性天皇である元明天皇が高齢を理由に譲位したことから始まります。その2代後に聖武天皇が心労を理由に譲位したのが男性天皇初の譲位です。(3)については、譲位の理由として最も多いものであり、嵯峨天皇が大覚寺を拠点にして院政を行ったのが始まりです。平安時代後期になると、白河天皇が譲位して院政を行い、本格的な院政時代の幕開けとなりました。(4)については、淳仁天皇が恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の連帯責任を取らされて廃帝されて以来、時の権力者の意向によって半強制的に退位させられる例が多々存在しています。

ここで、歴代天皇の即位・退位について、表とグラフを使ってより詳しく見て行きたいと思います。分析に用いる天皇のデータは、実年代をほぼ比定することができる第20代安康天皇の時代以降に誕生した第27代安閑天皇から第124代昭和天皇に至る98柱のデータとします。これによって、対象とするすべての天皇の実年齢を確定することができることになります。唯一生年が確定していない用明天皇については「540年誕生説」を採用しました。なお、時代の変遷に伴う傾向を捉える目的があるため、北朝のデータについては割愛しました。

(a) 天皇の践祚時の年齢

天皇の践祚の年齢は平安遷都前に高く、その後漸減し、保元の乱から承久の変のあたりまでに最低となり、戦国時代までに漸増し、江戸時代に再び低くなり、明治維新以降に急激に高くなる傾向にあります。

飛鳥時代以前は最終的には天皇が実権を持っていて崩御まで天皇を務めることが基本であったと言えます。そのため、天皇には即位時から実務能力が要求され、基本的にこの基準に適った皇位継承者が選定されたものと考えられます。したがって、践祚時の年齢が高くなっていたことには合理性があります。奈良時代になると天武系男子の不足が深刻となり、つなぎの女性天皇が次々と誕生しました。男子の皇太子が概ね20歳になると即位しましたが、各種の理由で長期体制を築くことができませんでした。ここに政権の舵をとる藤原氏が台頭し、天皇の実務能力も以前ほど要求されなくなりました。天智系への皇統の移動により、60歳の光仁天皇が最高齢で即位したのもつかの間、平安時代になると、天皇の祖父である藤原氏による摂関政治(あまり藤原氏の悪口は言いたくないですけど www)が行われ、10代での践祚が普通になりました。そして、天皇の祖父あるいは父による太上天皇政治(院政)が行われるようになると、10歳以下での践祚が普通になりました。太上天皇にとってみれば、二重構造を作らない上でも実務能力のない幼少の天皇の存在が必要であったと言えます。また、この時期に天皇が幼少で崩御する事態が続いたことも天皇の低年齢化に拍車をかけました。鎌倉時代になって武士の時代となり、承久の変が平定されると、皇室は武士に軽んじられることとなります。建武の中興によって、皇室はほんの一時期だけ国体を立て直しますが、その後は南北朝の動乱、応仁の乱、戦国時代と続く不安定な時代へ進んでいきます。当然のことながら、天皇には不安定な時代を乗り切る処理能力が必要とされ、践祚の年齢も高くなっていきました。江戸時代になって時代が安定すると、天皇は身分が保証され、再び践祚の低年齢化が進みます。そして、明治期以降は王政復古と譲位の撤廃により飛鳥時代の状況と類似することになり、再び践祚の高年齢化が進む状況となっています。

ちなみに、今上陛下は55歳で践祚されています。これは譲位のオプションががない中で昭和天皇が長寿を全うされたことによるものです。皇太子殿下の年齢は現在59歳です。5月に行われる即位は、平安時代以降では最高年齢での即位となります。

(b) 天皇の退位時の年齢

基本的に践祚の年齢と退位の年齢には一定の相関関係があるので、退位時の年齢の時間変動の傾向は、践祚時の年齢の時間変動の傾向と類似することになります。

ここで注目すべきは、鎌倉時代まではフラクチュエーションが短周期で分散が高いのですが、それ以降では、変動が長周期になっているということです。これは、天皇の退位年齢にはある程度のコンセンサスが存在し、皇位継承が安定的に行われるようになったことの証左です。また、保元の乱から両統迭立期あたりまでの期間においては、20歳のあたりの低年齢で譲位が行われています。これは、太上天皇が二重構造を作らないために実務能力を持つ天皇を擁立しなかったためと考えられます。なお、譲位が行われない場合、退位年齢は崩御年齢と一致することになります。したがって、医学が発展すればするほど退位年齢は高くなると言えます。

昭和天皇の87歳と今回の今上天皇の85歳を除けば、歴代天皇は最高でも70代で退位しています。つまり、80歳を過ぎて、四方拝・新嘗祭などの天皇のみに許される身を削るような宮中祭祀(親祭)を行ったのは、天皇の悠久の歴史を見ても、昭和天皇と現在85歳の今上陛下のお二人だけということになります。これは、他の人権とは比較にならない「生」という最も基本的な人権を脅かしかねない状況であると言えます。

(c) 天皇の崩御時の年齢

天皇の崩御時の年齢の時系列変動は、概ね50歳前後を平均として分散がほぼ一定の【ウィーナー過程】を示していると言えます。

ただし、保元の乱から承久の変あたりまでの期間は20歳以下で崩御する天皇が続出するという異常な時代であったと言えます。この時代は天皇の践祚年齢が異常に低い時代であり、子供の死亡率の低さに影響を受けたものであると考えられますが、当時信じられていた原因は[日本の大魔王 崇徳上皇]の怨霊であるとされていました。なお、女性天皇は古くから男性よりも長生きであったことがわかります。また、昭和天皇の87歳は、上古の天皇を除いた歴代天皇の中で最高齢でした。

ちなみに上古の天皇の年齢が100歳を超えている理由として、暦の数え方が現在とは異なっていたためという説があります。1年を2年と数える春秋暦(2倍暦)や1年を4年と数える春夏秋冬暦(4倍暦)という仮説を設定し、古墳などの遺跡や遺構の年代とを比較すると、比較的整合がとれた結果が得られることが知られています[文献1][文献2]。少なくとも、記紀における天皇の年齢が高すぎるという単純な理由のみでその存在を否定することは合理的な考証ではないと考えます。

(d) 天皇の在位年数

古来、天皇の在位年数は概ね20年程度というのが一般的でしたが、室町時代から戦国時代にかけて30年程度となり、近代では例えば明治天皇の45年、昭和天皇の62年など、長期にわたって在位する傾向が高まっています。

この傾向も譲位が行われないことに起因するものですが、高齢の天皇が増えるほど践祚年齢も高まるため、人間の平均寿命にドラスティックな変化がない限り、昭和天皇の在位年数が概ねピークであると考えられます。

(e) 天皇の退位から崩御までの年数

白河上皇、鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇、後水尾上皇などの院政の印象が強い天皇は、基本的に退位から崩御までの年数が多いことがわかります。この他、駆引きのために上皇の役割が大きかった両統迭立期にも太上天皇が長い期間にわたって院政を引いていたことがわかります。

一方で、心身の健康上の理由で皇位を譲った天皇は退位から崩御までの年数が短い場合がほとんどであると言えます。人間は基本的人権として、自由という【自然権】と平等という【社会権】を持ちますが、天皇は生まれながらにしてこの2つの権利を十分に行使できない存在であると言えます。天皇が天皇の職を全うした後に譲位し、時間的な自由と平等を愉しむことができる環境を自由意思で選択できるように法整備することはその意味でも重要であると考えます。

天皇の玉座(京都御所にて撮影)

天皇の玉座(京都御所にて撮影)

以上、客観的なデータを示してきましたが、現在の皇室典範において譲位の規定がないのは、
先に示した4つの上位の理由のうち、(3)と(4)目的の皇位継承が発生することを回避するためであると言われています。

(1)男系女性天皇が後継の男系男性天皇に皇位を譲る
(2)心身の健康上の理由で皇位を譲る
(3)院政を行うために意図的に皇位を譲る
(4)政局により意に反して皇位を譲る

すなわち、(3)天皇の専横によって自らが都合の良い皇位継承を行うことで、上皇・天皇の二重構造を構築する可能性、あるいは(4)特定の人物が天皇を政治利用する可能性を排除するためであるとされています。国民を無視したこのような皇位継承の可能性を排除することには一定の合理性があります。しかしながら、これによって、今上陛下が問題提起された(2)の可能性を排除することは、天皇の人権を限度を超えて侵すと同時に国民の利益を損なうことにもつながりかねません。

(3)(4)のオプションを排除して(2)のオプションを採用するための一つの解決方法としては、心身の健康に関わる客観的基準を満たした場合にのみ、国会の承認を条件として、天皇が皇位継承順位第一位の皇族への譲位を選択できる(譲位を妨げない)規定を皇室典範に追加すること考えられます。例えば、過去の事例を見ると、75歳以上で在位した天皇は昭和天皇と今上陛下のみであり、75歳以上を要件にして天皇が希望すれば皇位継承順位第一位の皇族へ譲位できるということにすれば、長期にわたる二重構造や天皇の政治利用を排除して天皇の最低限の人権を確保することができるものと考えます。

勿論、国民主権の日本国において、政治性を持たない天皇が院政を引くことは論理的に不可能ですし、皇道を貫くために在位を希望する天皇を政局で退位させる政治家を国民が許容することも実際上はありえないと考えられますが、すべての不測の事態を排除する論理的な法整備は皇室制度を守るために必要と言えます。今上陛下の譲位によって、国民の総意と言えるほどの支持を背景とした穏やかな皇位継承が行われる今、普遍的で頑強な譲位の規定を慎重に模索することが重要であると考えます。

憲法第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

憲法第2条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する

天皇皇后両陛下におかれましては、長期間にわたって、日本国民のアイデンティティの支柱、日本国民の統合の象徴、そして日本国民の精神の規範として、数々の公務を見事に遂行されてこられました。日本国民として深く感謝いたします。

「セクハラ」と「パワハラ」野党と「モラハラ」メディア
藤原 かずえ
ワニブックス
2018-09-27

編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2019年4月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。