現代は「石油からデータへ」の文明の大転換期だといわれる。企業の経営もいわゆる「デジタルトランスフォーメーション」で激変が予想される。そんな中で政府の役割はどうなるのか。
楽観論はエストニア型の便利で透明性の高い“e-デモクラシー社会”の実現である。だが一方では、ジョージ・オーウェルが小説「1984年」で描いたように政府がITを駆使して個人の生活を監視する時代になるという悲観論もある。今回は「データ本位主義」の時代の政府と社会の関係について考えてみたい。
企業が顧客を逆選択し、行動も誘導
IoT(インターネット・オブ・シングズ)とデータの時代には個人の行動や性癖に関するデータが大量に得られる。そしてデータは使い方次第で企業にとっても本人にとっても大きな資産となる。例えばリストバンドは本人の自覚よりも早く脈拍の異常を把握し、病気の予兆を知らせてくれるだろう。家族の購買データをAI(人工知能)で分析するとその家族が教育熱心か、食生活が健全か、趣味嗜好はどうかなど消費パターンやライフスタイルが読み取れる。
こうしたデータ活用は、今のところはビジネス分野におけるリコメンデーション、つまりもっとモノを買ってもらうための働きかけが中心だ。だが、さらに踏み込み、顧客のデータを使って将来、顧客に関して発生しうる将来リスクを予見し、融資の可否や金利や損害保険料の決定に使う動きがでてきている。
つまり、今までの「品定め」とは逆に「客定め」にデータが多用される時代に入りつつある。これを推し進めると提案や警告(例えば、「乱暴な運転を続けたら保険料が上がりますよ」という警告)を出し続けることで企業が消費者の行動を間接支配する動きにつながるだろう。
ちょっと恐ろしいが、企業が相手の場合はまだよい。個人側が自分のデータはみだりに企業には渡さないと決めてしまえばおしまいだ。企業にデータを全く出さないと経済的に損をしたり、一部の商品やサービスが入手できなくなったりするかもしれない。だが大した損失ではない。実際に海外では現金お断りの店があり、高速道路もETC(自動料金収受システム)レーンしかない場合があるが、生きていけないほどの不便さではない。
要は個人は自分のデータを特定の企業には出さないと決めればそれまでだ。また、そういう顧客向けに別途サービスする企業も出てくるので特に悲観する必要はない。
政府がデータを握るとどうか
さて問題は政府が個人データを積極的に使い始めるリスクである。政府は企業と異なり、個人データを強制的に入手できる。例えば税務署は所得や経費の情報を、健康保険の運営主体は個人の健診、受診データを簡単に入手できる。ほかにも学力テストの成績、交通違反の履歴、転居歴、転職歴など政府はその気になれば、かなりの個人データを集積できる。そもそも犯罪捜査ではすでに警察が合法的にこれに近いことをしている。
もちろん法律の縛りがあって、政府は個人のプライバシーを守らなければならない。しかも幸か不幸か役所は縦割りだから各種データを集めて統合し、特定の国民の人物像をあぶりだす作業は簡単ではない。だが今後はマイナンバーが普及し、行政サービスにもID番号がふられるようになる。すると使える個人データはどんどん充実し、また加工しやすくなる。社会問題の未然防止、社会運営コストの削減の大義の下で、政府が「ハイリスク層」を対象にデータを駆使した個人の生活への”事前介入”を始める可能性が否めないのではないか。
ジャンプスタートからヘッドスタートへ
実は20世紀に入ってずっと、政府は将来の社会コストを下げるために個人の生活への“事前介入”を拡大してきた。典型例は国民教育と国民皆保険である。前者の国民教育とは、国家が親から子育ての役割を一部吸い上げる営みである。そうして国家は国民全員に同じ教育を施すことで民度を上げ、労働力の質を上げ、ひいては貧困やそれに由来する犯罪などの抑制を図ってきた。
また有権者としての資質を育て、民主政治の基盤としてきた。後者の国民皆保険も同様だ。将来に向けた生活の不安を取り除くことで社会全体の安定をもたらしてきた。
教育分野では近年、さらに早期からの“事前介入”が進み、教育開始が低年齢化している。これは学力を上げるにはなるべく早く、幼児の頃から鍛えた方がいいという考え方による。米国で発達したこの考え方は、しばしば「ジャンプスタートからヘッドスタートへ」といわれてきた。
ジャンプスタートとはバッテリーが上がってしまった車を他の車から給電する応急措置のことであり、ヘッドスタートとは前持って準備して取りかかることをいう。保健分野でも同じだ。最近は治療から予防への掛け声のもと、行政でも企業でも病気にならないカラダ作りに力が入れられている。
「予防&リスク管理」への公共の範囲拡大
こうした流れは、今のところは将来、問題を引き起こす可能性の高い個人(ハイリスク層)を抽出してあらかじめ特殊な措置を講じることまでには至っていない。民主政の行政サービスの原則ではすべての人を平等に扱わなければならないからだ。また特定個人の行動に事前介入したり高い将来リスクを予見できるほど精度の高いデータも今はまだ入手しにくい。
だが、いつかそれが可能になる。そうなったときに民主政のもう一つの原則である多数決の原理が平等原則を超越するとどうなるか。少数のハイリスク層を対象に「未然予防措置を講じよう、それが本人にとっても社会にとっても正義だ」といった議論にならないか。
この問題は実は生命倫理の問題に似てくる。とてもナイーブなテーマだが、政府のデジタル化は民主政のもとでの政府と個人の距離、ひいては社会契約説の見直しという大きな課題につきあたるように思える。
(お知らせ)こうしたデータと行政の関係を考えるために5月7日からDMMのオンラインサロン「街の未来、日本の未来――対話とデータで地域を変える」を開設しました。ご興味ある方は以下を参照ください。
編集部より:このブログは慶應義塾大学総合政策学部教授、上山信一氏(大阪府市特別顧問、愛知県政策顧問)のブログ、2019年5月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、上山氏のブログ「見えないものを見よう」をご覧ください。