令和を迎えて皇位継承の資格がある皇族はお三方になった。皇位継承順位一位の「皇嗣」秋篠宮様、二位の秋篠宮ご夫妻のご長男悠仁様、そして三位の、天皇陛下の叔父常陸宮様だ。この事態に皇統維持の観点から女性・女系天皇や旧宮家の皇族復帰などの議論が始まっている。
悠仁様ご誕生前の様子を思い出すが、何れにせよ皇室典範の改正が必要だ。であるなら皇室典範第9条「天皇及び皇族は、養子をすることはできない」を削除して、旧宮家の皇統の男子を皇族、すなわち常陸宮家、三笠宮家そして高円宮家の養子にお迎えすることを筆者は提案する。
そう思う理由は第119代光格天皇(在位1779年~1817年)の事例があるからだ。筆者は5月14日の拙稿「神話時代の天皇はなぜご長寿なのか?」を纏めるのに、「歴代天皇年号事典」(吉川弘文館)と「歴代天皇総覧」(中公新書)を読み、この天皇が養子であり、今上天皇に直接つながる天皇であるのを知った。
光格天皇は第113代東山天皇の皇孫の閑院宮典仁親王の第六王子として贈従一位岩室磐代を母に1771年(〜1840年)に誕生した。翌年聖護院宮忠誉入道親王に預けられ、将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だったが、1779年に第118代後桃園天皇が崩御した際、同天皇の養子となって11月に践祚、翌年9月に即位した。皇后には後桃園天皇の皇女欣子内親王を迎えた。
では第113代東山天皇まで戻り、第119代光格天皇までの天皇を前掲の両書に拠って紹介する。
東山天皇(在位1687年~1709年)は1675年(~1709年)に霊元天皇の第四皇子として内大臣松木宗条の女宗子を母に誕生し、1687年に譲位により即位した。この天皇の御代に立太子や大嘗祭などの朝廷儀礼が復活した。儲君(ちょくん=皇太子)の制度もこの御代に設けられた。
第114代中御門天皇(在位1709年~1735年)は1701年(~1737年)に東山天皇の第五皇子として誕生、母は内大臣櫛笥隆賀の女賀子。1709年に譲位により即位し、1711年に元服の儀が復活挙行された。この頃の朝幕関係は頗る良好で、後の光格天皇に繋がる閑院宮の創立もこの御代。
第115代桜町天皇(在位1735年~1747年)は中御門天皇の第一皇子として1720年(~1750年)に誕生、母は近衛家熙の女尚子。1720年に譲位により即位した。朝議典礼の復活に傾注し新嘗祭や宇佐宮奉幣その他多数の廃典を復興した。聖徳太子の再来といわれたが31歳で崩御。
第116代桃園天皇(在位1747年~1762年)は桜町天皇の第一皇子として1741年(~1762年)に誕生、母は権大納言姉小路実武の女定子。1747年に譲位により即位したが22歳で早世。神道説に傾倒し、これを関白などが諫奏する事件を起こすも、一面天皇の向学心の旺盛さの表れともされる。
第117代後桜町天皇(在位1762年~1770年)は1740年(~1813年)に第115代桜町天皇の第二皇女。いわゆる女性天皇で母は皇太后舎子。1762年に異母弟の桃園天皇が若くして崩御し、儲君英仁親王(後桃園天皇)が幼少なため皇位を継ぐ。幼少で践祚した後桃園・光格両天皇を輔導した。
第118代後桃園天皇(在位1770年~1779年)は1758年(~1779年)に桃園天皇の第一皇子として誕生、母は皇太后富子。父天皇崩御の際幼少であったので、暫時伯母の智子内親王(後桜町天皇)が皇位を継承し、後に譲位により即位した。22歳で崩御した際、皇女欣子内親王が当歳だったため後の光格天皇を養子とした。
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さて、こうして東山天皇の御代まで約330年、14代遡るだけでも皇室の様々な出来事を知ることが出来る。それは側室の子が多いこと、在位期間が短いこと(平均20年以下)、女性天皇(後桜町)がいること、そして多くが譲位であることなどだ。
が、何より特筆すべきは、一つは光格天皇が養子であったことであり、他は中御門天皇の御代に閑院宮家を創設したことだろう。朝幕の関係が良好だったからとされるが、もしこれらのことがなかりせば今の皇室は存在しなかった。
実は、筆者は2016年8月の上皇陛下のビデオを拝見してびっくり仰天した。まず憲法に違反すると思ったし、仮に被災地への行幸がお出来にならないお身体になられても、御所で日本と国民の安寧をお祈り下さるだけで本望だから…と思ったからだ。
が、こうして令和を迎え、朝廷儀礼に則って新しい天皇皇后がご即位になり、皇族方が何度もお出ましになった一般参賀で十数万という人々が日の丸を打ち振って寿ぐのを見て、今はしみじみこれで良かった、自分も日本人だなあ、と感じている。
皇統の男子は一説によると100人を超えるらしい。八幡先生の投稿にあるように愚かなNHKのアンケートには答えないだろうけれど、もし皇族に加わるようなことになれば、それに応えるお心構えの方も中にいらっしゃるとの話も漏れ聞く。
皇室典範の第9条が削除された暁に、養子として皇族に迎えられた皇統の男子がいつの日にか天皇になられた時も、筆者はきっと今回のご譲位と同じ心境になるのではないか、と本稿を書き終えた今つくづく思っている。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。