習近平が復興したいらしい偉大な「中華民族」って?(中)

>>>秦の始皇帝による統一前から唐の建国頃(600年代前半)までを書いた「習近平が復興したいらしい偉大な『中華民族』って?(上)」はこちら

第二期

太宗 李世民(Wikipedia)

太宗に「世界皇帝」の称号を贈ったとはいえ、モンゴル高原まで中国領になった訳ではないと岡田英弘はいう。「国家とか領土とかいう概念は18世紀末に国民国家という概念と共に初めて生まれたもので、この時代にはそれぞれの部族長らが唐の皇帝を自分の君主と認めて個人的な関係を結ぶに過ぎなかった」と。

岡田は唐が鮮卑の王朝だった証拠として、トルコ人が唐の皇帝を北魏の皇帝に由来する「タブガチ・カガン」と呼んだことと、太宗が、チベット王に嫁した皇女文成公主を王の急死後に復位した王の父の後妻にすることを認めたことを挙げる。前者は北魏が鮮卑の王朝だったからだし、後者もこうした儒教道徳に反する行為を漢族がするとは到底考えられないからだ。

唐代は618年から907年まで300年近い長きに亘ったので様々な事が起きた。そもそも兄弟殺しから王朝は始まった。実力はあったが次男だった世民は兄の皇太子建成と弟の斉王元吉を殺した。父高祖は世民を皇太子とした後、退位禅譲して太宗とした(玄武門の変)。

さすがの太宗も、かつて隋の煬帝が果たせなかった高句麗征伐には鴨緑江を超える前に冬を迎えて失敗した。三代皇帝高宗は作戦を変え新羅と連合して高句麗と友好的な百済を亡ぼした。日本は百済と友好していたのでその遺臣と連合し、663年に白村江で唐・新羅軍と海戦になった。

唐はこの戦いに勝ち、孤立した高句麗は滅んで半島南半分は新羅によって統一された。岡田は、「敗れた日本も、唐と新羅の脅威を前に団結が進み、668年に今日で即位した天智天皇の時に日本の国号天皇の称号が制定された」とする。

中国史上で唯一の女性皇帝則天武后は太宗の妃だったが、太宗の死後にその先妻の子高宗の妃になった。亡夫の父と再婚した文成公主と同様に鮮卑ならではだ。武后は690年に自ら皇帝となり国号を周と改めた。が、705年に病を得て退位し、武后の子中宗が唐に国号を戻した。

安禄山(Wikipedia)

第六代玄宗(在位712年~756年)の頃になると地方の節度使の力が強まり、756年に安史の乱が起きた。安禄山(父不詳)の母と思史明(母はソグド人)の父はトルコ人だ。この頃モンゴル高原で起こったウイグル帝国(744年~840)はキルギズに滅ぼされるが、ウイグル人もキルギズ人もトルコ語を話した。これがタリム盆地一帯を東トルキスタンと呼ぶ由縁。

チベット帝国では842年に王が宰相に殺されるクーデターが起きて帝国が分裂し、その後150年間にわたりなんの記録も残っていない暗黒時代となった。唐でも875年に漢人の黄巣が洛陽と長安を攻め落とすという黄巣の乱が起きた。

黄巣は大斉皇帝を名乗ったが、884年に部下の漢人朱全忠とトルコ人将軍李克用に殺された。その後、朱全忠と李克用は華北で抗争し、907年に朱全忠は唐の哀帝を廃位して、晋以来約600年振りの漢族王朝後梁を開封に建てた。この後に五代十国時代に入る。

五代とは唐滅亡から960年の宋建国までの間に中原で興亡した後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五王朝を指す。後唐、後晋、後漢はトルコ人の王朝だ。中原の外では前・後蜀、呉越、南・北漢など十余国が乱立したが、この頃モンゴル高原では東から契丹が進出していた。

五国のトルコ人王朝後晋は後唐を亡ぼすのに契丹の太宗の支援を受け、その見返りに河北一帯の燕雲十六州(北京を含む辺り)を割譲した。契丹は916年に耶律阿保機(太祖)がを建て、西は甘粛でウイグル帝国を、西は渤海王国を亡ぼした。

契丹の太祖を継いだ次男の太宗が後晋から燕雲十六州を得たが、これに象徴されるように以後次第に北方の帝国が中国に対して優位になり、それが女真族の金からモンゴル人の元へと引き継がれてゆく。

趙匡胤(Wikipedia)

さて、五国最後の後周では960年に皇帝の親衛隊長趙匡胤がクーデターを起こし宋(北宋)を建てた。北宋は漢人王朝といわれるが、岡田は「宋史には、匡胤の父はトルコ人の後唐の親衛隊長で祖先は北京の出とある。この時代は北京も遊牧民の中心地で安禄山も北京でトルコ人を母に生まれた。よって趙匡胤も遊牧民の血を引く可能性が高い」とする。

つまり、「北宋時代の漢人、すなわち中国人の大部分は、統の面では実は隋・唐時代の中国人の主流だった遊牧民の後裔だが、意識の面では自分たちは秦・漢時代の中国人の直系の子孫であり、純粋の漢人だと思い込むようになっていた」と岡田はいうのだ。

北宋は南方諸国を併合した後、華北・黄河流域の北漢を979年に亡ぼし、契丹から祖先の故郷北京の奪回を図るがこれには大敗した。逆に1004年には契丹が北宋に侵入し開封に迫った。勢いに恐怖した北宋は和議を申し入れ、親類付き合いする代わりに絹二十万匹と銀十万両を毎年契丹に支払う「の盟」を結び、以降120年間、契丹滅亡まで平和が続く。

『資治通鑑』の編者として知られる司馬光(Wikipedia)

岡田はこの「澶淵の盟」などは中国皇帝を天下に唯一の存在とする史記の正統からすれば酷い屈辱で、その反動から古い時代に入植した遊牧民の子孫に過ぎない者が、自分達は正統の中華だ、漢人だと自尊心を慰め、新しく北方に起こった遊牧帝国を成り上がりの夷狄と蔑んだのが中華思想の始まりであり、それを反映したのが1084年完成の「資治通鑑」であるとする。

この「資治通鑑」に纏わる岡田の記述が同書の白眉と思われるので以下にそのまま引用する。

唐が編纂した「北史」が北朝をも正統と認めたのと違い、「資治通鑑」が南朝しか正統と認めないのは宋と対立した契丹を北朝となぞらえ、契丹皇帝は正統でなく天下を支配する権利のないにせ皇帝だと遠回しに主張している訳だ。どんなに軍事力が強大でも、どんなに広大な地域を支配しても「夷狄」は文化を持たない人間以下の存在で正統ではなく、「中華」だけが本当の人間だというこの負け惜しみの思想こそが「中華思想」の起源である。かつて「中国人」とは「都市の住む人」という意味で、種族の観念を含まなかったが、ここに及んで「中国人」は種族の観念になった

しかしこの「中華思想」は事実に反する。どんな社会でも支配階級の方が被支配階級よりも高い生活や文化の水準を享受するのが当たり前である。316年の晋朝が一旦滅亡してからは遊牧民出身の王朝が続いたから、支配階級の「夷狄」の方が被支配階級の「中国人」よりも文化において勝っていた。負け惜しみの中華思想は中国人の病的な劣等意識の産物であった。

筆者はこれを読んで、先の大戦後の台湾に進駐した極めて程度の低い中国国民党軍に対する、半世紀の日本統治で高い教育・文化水準と道徳規範を身につけていた台湾人の葛藤、そしてその後に起きた二二八事件のことをどうしても想起してしまう。上の中国人=国民党軍であるのはいうまでもない。

さて、北では後に清朝を築いた女真族が1115年にを建てた。女真族はツングース系の満洲語を使う森林地帯の狩猟民で、長らく契丹に服していたが、1126年に開封を占領し、宋は南京に逃れた。この王朝はこれまでの(北)宋と区別して南宋と呼ばれる。

北から侵入して略奪を働くタタール人に苦慮していた金は、1195年に討伐に乗り出した。この戦いにモンゴル族の首領テムジン(チンギス・ハーン)も加わっていた。彼は1214年に金を、1218年には西遼を亡ぼし、さらに西進してホラズムに戦争を仕掛け、アフガニスタンを縦断したが、1227年西夏征伐中に没した。

(下)は、元の建国から、明朝・清朝時代、中華人民共和国以降の中国まで書く予定です。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。