「反日」に市民権は不要?
憲法や歴史の論争を眺めると高確率で「反日」という言葉に出会う。とりわけ保守派の主張に多い。対してリベラル派の主張にはあまりなく、あるとしても中国・韓国で行われる対日デモ活動を表現する際に使われる程度であり、リベラル派は「反日」という言葉自体、認めたくないようである。
ゼロ年代辺りから「保守」「リベラル」と言った伝統的な思想区分とは別に「反日」が台頭してきた。
「反日」は積極的に肯定できない言葉であることは明らかだろう。やはりこの言葉は排他性が強い。リベラル派のほとんど全部は「反日」に「市民権」を与えるべきではないと考えているではないか。
一方でこの言葉がなくなるとも思えない。わかりやすいし発音も簡単である。今の時代、手書き文書で政治活動を行う者は極小派だろうが、画数も少ない。
筆者もリベラル派の主張を聞いて「これは反日だ」と思ったことがないと言ったら嘘になる。
このなくなりそうにない言葉を無理して否定しようとすると却って言葉のインフレ化を招かないか。今、必要なことは思い切って「反日」と向き合うことではないか。
積極的愛国心は不要である。
一口に「反日」と言ってもその活動が国外と国内とでは意味合いは大きく異なる。
国外の「反日」の主体はやはり外国人であり、国外の活動である以上、その影響は間接的なものに留まる。内容によっては完全に無視しても良い。対して国内の「反日」の主体は常識的に考えれば日本人であり、内容によっては我々の生活圏で行われる可能性もあり、その影響は直接的で関心も集めやすい。
日本人による国内の「反日」が関心を集めやすいのはある意味、当然であるが、一方で日本人であるからと言って「親日」である義務は全くない。「日本で生まれた以上、日本を愛すべきだ」という主張はもっともらしいが具体的な根拠はない。
日本は自由・民主主義国家であり、日本人がどこの国を愛そうが、それは個人の自由である。
「愛国心」の必要性が唱えられることが度々あるが、それを肯定するのはどんなに贔屓目に見ても「我々は生まれる国を選べないし海外移住の文化もない。だから住みよい国にしよう」といったの個人の利益を確保するための消極的なものに過ぎず、積極的な意味での愛国心は不要である。個人の利益の観点で言えば消極的愛国心は必要最小限の次元で許容されるが積極的愛国心は否定されるべきである。
「自由主義陣営の一員たる日本」を守る。
「反日」という言葉を素直に解釈すれば「日本に反する行為」とか「日本の利益に害する活動」と読めるだろう。もちろんこれらの活動をしたからと言って直ちに「反日」にはならない。
例えば「日本」とか「国家」を意識することなく日常を過ごしている日本人が外国との歴史認識問題でなんとなく外国の立場を支持したとしても普通「反日」とは言わない。
単なる歴史認識問題への無関心・知識不足に過ぎず問われるのは教育や報道であり我々日本人の問題に過ぎない。
一方である日本人が外国の利益を図る目的でアジア・太平洋戦争時の旧日本軍の活動を著しく誇張・歪曲し、日本政府に対して当該外国に賠償金を支払うことを国際会議の場を力強く主張した場合、それは違法ではないが「我々日本人の問題」とは言い切れない。
しかし、もしその活動に当該外国の政府から金銭的支援があった場合は「反日」と言わざるを得ない。
「日本」という共同体に所属する構成員(日本人)が所属共同体の利益を害する活動をしたとしても、その活動の影響が所属共同体の内部に留まるならば、それは所属構成員(日本人)の責任である。
一方で日本の利益を害する活動の影響が所属共同体を超えた場合は話が異なる。
要するに外国の支援を得ていたり、外国の利益を図るために日本の利益を害する活動は外国の内政干渉を招く恐れがあるし、その外国の国力が日本のそれを上回る場合は、日本は内政干渉を拒否することも出来ない。外部勢力の介入は「日本人による日本人のための解決」を妨げる恐れがある。
もちろん外交の本質は国家間の内政干渉であるしグローバル化時代に外部勢力の介入を警戒するのも時代錯誤という批判もあるだろう。
しかし一口に外国と言ってもアメリカのような同盟国もあれば自由主義陣営に挑戦する独裁国家、同陣営の基礎である国際信義に著しく反する国家がある。
筆者は日本はアメリカを主軸とする自由主義陣営の一員であり、今後もそうあるべきだと考える。
だから独裁国家・国際信義に著しく反する国家と対峙することはやむを得ないし、対峙するためにもこれらの国々の利益を図る目的で日本国の利益を害する活動は「反日」と呼ぶことはやむを得ない。この部分に限り「反日」に市民権を与えることは許される。
この場合、日本そのものというより「自由主義陣営の一員たる日本」を守るために「反日」の存在を認めるということである。
存在を認め合法かつ平和的に退場させる。
ある活動を「反日」と定義したからと言って直ちに「規制」の議論には発展はしない。
日本は討論文化が未熟なため異なる存在同士が「意見を交わし距離を縮める」という発想が乏しく、直ぐ「規制」しようとするがそれは正しくない。
重要なことはまず「反日」の存在を認めることである。「反日」の存在を認めることでそのインフレ化を防止し無用な摩擦・衝突も避けられるのである。
何よりも「反日」の存在を認めることで「反日」の従事者にその真意を問うことが出来る。
「あなたの活動は本当に日本の平和や自由に貢献していますか?」と粘り続く問い続けるのだ。問い続けても「反日」を止めないならば、その者が所属する組織・業界について調べることは許されよう。
もし「反日」の従事者が雇用リスクのない「保護産業」に所属する者だったら、その保護を解除すべきである。雇用リスクがないから腐敗し「反日」に従事してしまうのである。
今、我々に必要なことは「反日」を無理に否定するのではなく、その存在を認め綿密に調査し合法かつ平和的に「反日」を日本社会から退場させることである。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員