約束を破る韓国と約束を守りすぎる日本

池田 信夫

河野太郎外相は19日午前、南官杓駐日韓国大使を外務省に呼び出し、朝鮮人労働者の訴訟について、日韓請求権協定にもとづく協議に韓国が応じないことに抗議した。これに対する南大使の「日本側に韓国側の構想をお伝えしてきており…」という通訳の言葉を、河野外相がさえぎって声を荒げた(動画の8:00以降)。

ちょっと待ってください。韓国側の提案はまったく受け入れられるものではない、国際法違反の状況を是正するものではないということは、以前に韓国側にお伝えしております。それを知らないふりをして改めて提案するのは極めて無礼でございます

外交の場で、このように相手の話をさえぎることは珍しい。しかもそれをあえてマスコミの前でやったことに、河野氏の戦略が感じられる。「今度は甘やかさないぞ」という意思表示だろう。

韓国が約束を破るのは、これが初めてではない。1993年の河野談話で合意し、日本はアジア女性基金をつくって出資した。この責任の曖昧な方式が前例となり、慰安婦合意のときも財団をつくって日本は10億円出資したが、韓国は慰安婦像を撤去しないで財団を解散してしまった。

ところが文在寅政権は、元朝鮮人労働者への賠償についてまた「財団をつくろう」という。それが南大使のいう「韓国側の構想」である。元朝鮮人労働者の判決は日韓請求権協定で明示的に終わった話を蒸し返すもので、この構想を認めたら、日韓関係は1965年以前に戻ってしまう。

これまでの経緯をみると、韓国政府にはそれなりの一貫性がある。前の政権の約束は守らないということだ。河野談話で合意したのは金泳三大統領だが、その後も大統領が代わるたびに慰安婦問題を蒸し返した。慰安婦合意は朴槿恵大統領のときだが、文在寅大統領はそれを反故にした。日韓請求権協定は朴正熙大統領の結んだ条約なので、無視してもいいと思っているのだろう。

つまり韓国の政権には、国家としての連続性がないのだ。儒教圏では「国」という言葉は明や清などの王朝(政権)を示し、それを超えるstateに相当する言葉がなかった。「国家」という言葉は、明治時代に日本でstateの訳語としてつくられ、20世紀に清に輸入された造語である。

異なる政権が対外的な連続性をもって条約を守る主権国家は、1648年のウェストファリア条約以降の西洋近代に特有の概念だ。多くの国家が並立して戦争するヨーロッパでは、政権が交替するたびに条約が破棄されたのでは戦争が終わらないので、政権を超える国家の概念ができた。それが国際法の基礎である。

これに対して中国では、易姓革命で政権が代わると前の王族は皆殺しになり、宮廷は破壊され、条約も破棄された。朝鮮半島でも、韓国の大統領はほとんど畳の上で死ぬことができない。民主的な政権交代が根づいていないので、新政権はつねに「革命」なのだ。

他方で日本は、過剰に約束を守る国である。これは天皇制の影響だろう。日本中に多くの大名家があったが、それは天皇家の権威に結びついて連続性をもっていた。江戸時代に結ばれた不平等条約も、政権が代わった明治時代になっても破棄することなく、長い時間をかけて交渉して改正した。

つまり韓国が約束を守らないのも、日本が守りすぎるのも両国の伝統なのだが、国際社会では約束を破る国が強い。国際法はウェストファリア的な主権国家の概念にもとづいているが、主権国家はナッシュ均衡ではないので、韓国が約束を破ることは合理的な行動なのだ。

むしろ日本が一方的に約束を守りすぎたことが韓国を甘やかし、ここまで日韓関係をこじらせた。日本も約束を破ってしっぺ返しし、韓国に国際法を守らせることが合理的だ。半導体材料の優遇措置撤廃は、約束を守るようにみえて破る、きわどい球だろう。

だが文在寅政権が日本の報復に屈服したとしても、国家としての連続性をもたない次の政権が約束を守るとは限らない。国際法では日本が多数派だが、それは二国間では大した意味がない。むしろアメリカなど国際世論の「評判」を味方につける戦略が重要だ、というのが慰安婦問題の教訓である。