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話の後先が逆になるが、ここで米国側の宣言文案の策定過程と日本側の宣言受諾までの経過を少し詳細に追ってみたい。
開戦以前から日本の外交暗号、いわゆるパープル暗号の解読(解読文書はマジックと称された)に成功していた米国は、1941年春から始まった日米交渉における日本の方針は勿論、択捉島単冠湾から真珠湾へ向かう連合艦隊の航跡や、数時間手交が遅れたがために米国国民に「Remember Perl Haber」を植え付けた日本の最後通牒の内容までも事前に知っていたことが、公開された公文書によって今日明らかになっている。
1945年に入る頃には、欧州戦線だけでなく太平洋でもほぼ戦況が決していたので、米英ソ三国首脳は2月4日から11日までクリミア半島の避暑地ヤルタに会した。議題は主として最終盤を迎えていた対独戦で、ドイツ降伏までの最終計画や欧州の戦後体制、国連会議の日程などが話し合われた。加えて、ドイツ降伏後にソ連が日本に参戦する密約がなされたが、知る由もない日本はソ連の和平仲介に最後の望みを掛け、天皇親書を携えた近衛公の訪ソを、駐ソ大使佐藤尚武を通じて再三再四申し入れたのだった。
東郷外相と佐藤大使とのやり取りの暗号通信を傍受して、日本の様子を逐一知っていた米国の関心は、原爆の完成が近いたこともあって、いつどのような形で日本降伏を実現するかに移っていた。他方、ドイツとの戦争終盤と降伏後のスターリンの振る舞いを見るにつけ、前任のローズベルトが密約してしまったソ連の対日参戦は、原爆を持つに至ったトルーマンの米国にとって諸刃の剣になった。
日本を降伏させる最後の方策として米国は南九州(オリンピック)と関東(コロネット)への二つの上陸作戦を準備していた。ほぼ決している戦況とはいえ、44年9月15日-11月25日のペリュリュー島、45 年2月19日-3月26日の硫黄島、そして3月26日-6月23日の沖縄と、従来の突撃玉砕型から籠城しての徹底抗戦型に変化した日本の戦法で戦死者を激増させていた米軍には、何としても本土上陸による米兵損耗を避けたいとの強い思惑があり、ソ連参戦による日本の早期降伏への期待が大きかった。
しかし一方、一つには、参戦によるソ連の見返り要求がヤルタ密約の範囲(日露戦争で失ったソ連の全権益回復プラス千島列島)に止まらず、朝鮮半島や北海道など及ぶ可能性があること、一つには、原爆投下によってソ連参戦前に日本の降伏が実現するかも知れないことのために、ソ連参戦(8月9日)、原爆実験の成功と投下(7月16日、8月6、9日)、そして日本降伏(8月15日)の3つの要素が、米国にとって時間との競争になった。
そのポツダム宣言の文案だが、トルーマンはステティニアス国務長官を国連に出すつもりだったので、その草案作りは、日米開戦まで10年間駐日大使を務めた知日派で、ハーバード同窓のローズベルトの信任が厚かった国務次官兼長官代理のジョセフ・グルーに行わせた。
トルーマン回顧録にはこうある。
「5月末にグルーがやって来て、日本に降伏を促す宣言を出したらどうかと言う。宣言では天皇が国家元首としてとどまるのを米国が許す旨、日本に保証するとされていた」
「私は彼に、自分もこの問題をすでに考慮しており、それ(グルー提案)は健全な意見のように思われる、と告げた」
44年11月に国務次官、翌年1月には国務長官代理になっていたグルーは、45年3月頃には、在スイス日本公使館の海軍顧問藤村吉郎中佐と接触していた米国戦略情報局スイス支局長のアレン・ダレスを通じ、日本の降伏条件が「国体の護持」のみというインテリジェンスを得ていた。
長年の駐日歴からこれを理解したグルーは、表向きは日本に対する最後通告でありながら、事実上は条件付き降伏案と受け取れる宣言を作成し、大統領に日本向けに発表させることを考えたのだった。
その原案の日本の“皇室の存続”を保証する文言と最終の文言(第12条)は次のようである。
原案
「連合国の占領軍は、これらの目的(侵略的軍国主義の根絶)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」。
最終
「前記の諸目的が達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう」。
グルーは、この最後通告を45年5月31日に大統領声明として出すことを5月29日の三人委員会(陸軍、海軍、国務省の検討機関。メンバーはスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代理)に諮った。トルーマン回顧録にある通り内容の同意を得たものの、スティムソンが先送りを主張し、これが結論になったのだった。
スティムソンの部下だったジョン・マクロイが、スティムソンがこのように主張した理由を、「原爆の使用準備のことも考えなければならなかったからだ」と後に証言しているように、日本の降伏は原爆を使用した後であることが当時の米国の方針だったのである。
それでは米国はなぜそこまで原爆の投下にこだわったのだろうか。その理由は③で述べる。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。
【参考文献】
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「国際シンポジウム 東京裁判を問う」(細谷、安藤、大沼 講談社学術文庫)
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「パール判事の日本無罪論」(田中正明 小学館文庫)
「東京裁判 勝者の裁き」(リチャード・マイニア 福村出版)
「東京裁判」(日暮吉延 講談社現代新書)
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「昭和史を読み解く」(鳥居民 草思社)
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「コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾」(江崎道朗 展転社)
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「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか」(色摩力夫 黙出版)
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「VENONA」
「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」(ロナルド・タカキ 草思社)
「ダブル・ヴィクトリー」(ロナルド・タカキ 星雲社)
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「ハル回顧録」(中央公論新社)
「ハルノートを書いた男」(須藤眞志 文春新書)
「外交回想録」(重光葵 中公文庫)
「昭和の動乱」(重光葵 中公文庫)
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「ヤルタ・ポツダム体制と日本の戦後レジームを考える」(芦田茂 文芸社)
「米国の日本占領政策 上下」(五百旗頭真 中央公論)
「東京裁判」(レーリンク 新曜社)
「東京裁判、戦争責任、戦後責任」(大沼保昭 東信堂)
「東京裁判、戦争責任の思想」(大沼保昭 東信堂)
「鈴木貫太郎自伝」
「ダレス兄弟」