琉球処分は欧米植民地化を回避する見事な救急措置

八幡 和郎

黒船が東シナ海に姿を現すようになると、琉球王国とは国際公法のなかでいかなる存在かということが問題になりだした。清国のあいだでは、島津に支配されているのが実態であることは承知した上で、それを清国には宣言しないことで薩琉清三者の談合が成立していたが、子供だましは欧米諸国には通用しない。

フランス船がやって来たとき、島津斉彬は琉球王国を開国させ、そこを通じて貿易をすることで、欧米諸国の開国要求をガス抜きさせられないかといいだし、幕閣の実力者だった阿部正弘もそれに賛成した。しかし、琉球王国では、そんなことをしたら、北京に対して島津に支配されていることを公式に認めざるを得なくなり、冊封体制が維持できなくなると反対した。とくに、中国系官僚は、清国から個人的に位などもらっているのが誇りなので困った。

守礼門を通過するペリー一行(首里城公園HPより)

ペリー提督は日本に来る前に那覇に立ち寄ったが、日本での交渉がうまくいかなかったら沖縄を占拠することも視野に入れていた(1853年)。ペリーは強引に首里城を訪れ王府は受け入れ、ペリーは那覇に施設を残すなどした上で、とりあえず去った。翌年にも再びやってきて来港し、薪水の提供、漂流民の救助、領事裁判権などを内容とする「琉米和親条約」が締結された。

薩摩藩の付庸国であり、清と特殊な関係にもある琉球王国が、国際法上の主体となれるのか、微妙なところだった。現在の日本政府の立場は、「日本国が主体となって結んだ条約ではないため、確定的なことは言えない」「条約の有効性は確定的ではないものの、1879年の琉球処分で琉球王国が滅亡したことにより、当条約は失効した」としている。

島津氏はこのあいまいな関係をフルに活用し、パリ万博には「薩摩・琉球」として出品を行ったりしたが、変則状態をいつまでも続けることは欧米の植民地にされる危険があった。

ヨーロッパでも1648年のウェストファリア条約までは、独立国かどうかは曖昧で、室町時代の日本などと同じだったが、それをイエスかノーかはっきりしようとしたのが国際公法の世界だったのであり、こんどは、東アジアの国際秩序もそれに合わせということになったわけである。

日本はいち早く、この変革の必要性を認識し、賢く行動したのである。それが、琉球問題の処理を誤らず、また、尖閣諸島や竹島を確保することにつながったということの価値をもっと日本人は評価すべきだろう。独りよがりな国粋主義など国を誤る原因になるだけだ。

明治になって日本と清が国交を開くときに、日本は欧米と同等という主張をして、清国も、クビライが攻めてもだめだったし、倭寇でさんざん痛めつけられたし、そもそも清は隣邦だと言っている国を朝鮮と同じに扱うわけにはいかないということで受け入れられた。

明治政府は国交を結ぶために、伊達宗城大蔵卿を派遣し、天津で交渉に臨ませた。治外法権などは、一方的に日本に認めるのでなく、互いに認め合うということで妥協が成立して日清修好条規が結ばれ、ついに、対等な国交がついに実現しました。1871年のことだ。

ただし、清国は冊封関係をもっていた朝鮮、ベトナム、琉球について、なんらかの形で国際法上で位置づけたいと考えた。たとえば、併合してしまうとか、外交権のない保護国として扱うかである。しかし、清国は西洋の国をどうしたら納得させられるかなどまじめに研究したり工夫したりしなかったので、三つの冊封国ともに、清国との絆は断ち切られた。

つまり、ベトナムについては、清仏戦争の結果、清国は冊封関係を解消させられた。琉球は日本への編入を日清戦争後に追認。そして、朝鮮についても、いろいろあったが、下関条約でこれを解消することを清は受け入れた。

琉球について、日本は欧米諸国が沖縄の地位の不明確さに乗じて植民地化するおそれがあり、一方、清もより強い支配力を行使しようと考える危険もあることを憂慮し、明治政府は断固として内国化するしかないと決意した。

一方、清は真摯な対応に欠けていた。自国の領土という限りは対外的な責任があるという意識すら欠けていた。そのころ、宮古島の島民数十名が台湾で原住民に殺される事件があり、これを琉球問題を解決するよい機会だと思った日本は清国に賠償を求めた。ところが、清国政府は、琉球は清によって冊封された独立国であるので日本政府にとやかくいわれるものでないとし、また、台湾は「化外の地」だから清国政府は責任を持てないというような失言をした。

それでは近代的な意味での領土でないと清国は認めたことになったわけで、日本は台湾に出兵し占領した。この争いは、清が日本の出兵を義挙と認め賠償金50万両(テール)を支払いましたということで終わった。このことで、国際的には沖縄が日本に帰属するという認識が強まった。

この紛争中に日本は、琉球王国を琉球藩と地位を変更した。「藩」とは中国語で、内地としての「郡県」ではなく、外縁地帯にある、いまでいえば「少数民族自治区」みたいなニュアンスである。

琉球政府の官僚たちはこの変更の重大性に気づかなかったのだと沖縄では言う人もいるが、中国語に堪能で中国流の官僚としての訓練も受けていた彼らがそんなこと気づかないはずがない。

そして、台湾出兵の後始末を副島使節団が清国政府とまとめたあと、政府は大久保利通の秘蔵っ子で辣腕官僚として知られた(鳥取藩出身)を沖縄に派遣し、琉球に清との交流の差し止め、日本刑法の実施、軍の駐留、県制度の適用を要求した。

松田道之(前列中央)ら琉球処分官一行(沖縄県博物館HPより)

そののち松田は、粘り強く交渉し、徐々に沖縄での支持者を増やしたうえで、明治12年(1879年)に警察隊を率いて首里城へ赴き、沖縄県の設置と国王一家の東京居住を命じた。この一連の動きを「琉球処分」という。

これに対して、中国派の官僚たちの一部は清に助けを求めたが、清はそれほど強硬に抗議しなかった。それでも、たまたま、世界一周旅行の途中に北京に立ち寄ったアメリカのグラント前大統領に日本との交渉の仲介を頼んだ。

東京にやってきたグラントは、日本政府に対して、中国にある程度の譲歩をした方が両国関係のために良いとアドバイスしたので、日本は宮古・八重山を中国領とすること、最恵国待遇を認めて日本商人の中国内陸部での商業活動を自由化するという案を出した。

清はいったんこの案を呑んだのだが、「脱清人」と呼ばれる中国系琉球関係者は分割案に反対したし、中国側には日本商人の進出への抵抗もあり、棚上げになった。

もし、これが実現していたら、琉球国王が宮古・八重島に移って清国の保護国のようなものになる可能性もあった。その場合は、沖縄本島は旧勢力に配慮することなく、近代化を進めることが可能になるというメリットもあったのである。実際、明治政府はその後も、本土に比べても遅れた沖縄社会の近代化を実現するために、旧勢力との調整に手間取り、沖縄の中でも急速な近代化を望む人たちと抵抗する人たちがいて争ったのである。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授