橋下氏と維新はいつまで他人のせいにするのか?前編

太田 房江

私が大阪府知事を2期8年つとめ、橋下徹氏にバトンを渡してから、はやいもので12年が経ちました。この間、「太田府政」に関して、橋下氏、松井一郎氏等から、様々なご批判をいただいたところです。

その中には建設的なご意見もありますし、私が在職中にやりたくてもできず、維新府政が実現されたことももちろんあります。「政治家は歴史の審判を受けるものだ」という中曽根元総理のお言葉も肝に銘じ、ご批判は甘んじて受ける姿勢でいるつもりですが、新型コロナウイルスという未曾有の国難に皆が一致団結して立ち向かうべきとき、府民・国民の皆様に知っておいていただきたいことのみを記したいと思います。

橋下氏と東国原氏が唐突にテレビで名指し

番組中、太田府政に言及する橋下氏(「Mr.サンデー」より:編集部)

さる4月12日、フジテレビ・関西テレビ系『Mr.サンデー』の放送中、新型コロナ感染症対策に関して司会者から「大阪は(休業補償の)お金がないけど」と振られた橋下氏が、

太田房江さんが5100億円を使いこんで、僕らはその尻拭いをさせられている。

太田房江さんの使い込みがなければ大阪には4000億円あった。

などと発言されました。

さらに翌13日、フジテレビ・関西テレビ系『バイキング』でも、維新の元衆議院議員、東国原英夫氏が「太田房江さんが(府の基金を)使い込んだ」などと同様の発言をしました。

知事退任から12年も経って、自分たちの解釈を一方的に、突然地上波テレビで攻撃されたことに困惑と怒りを禁じ得ず、この件で大阪の有権者の方からお問い合わせ、ご心配の声もいただいています。本件については、ツイッターで反論し、はからずもネットニュースになってしまいましたが、140字の世界ではとうてい説明できないことも多く、あらためてここに書き置きます。

(なお『Mr.サンデー』『バイキング』ともに後日、番組内で私の反論コメントはご紹介いただきましたので、誠実に対応いただいた局側には感謝申し上げます。)

正当な手続きによる基金取り崩し

まず、お二人の発言ですが、私が「使い込んだ」などと、まるで横領まがいの犯罪をおかしたような物言いをされたことは非常に遺憾です。

何度も説明してきましたが、私は、バブルの崩壊で税収の大幅減が続いている最中の2000年(平成12年)に大阪府知事となり(資料1参照)、2期8年務めた後、2008年に府政を橋下氏に引き継ぎました。

この間、大阪府が財政再建団体(財政破綻により国の管理下におかれ自治権を失う団体、企業で言えば倒産)に陥るのを回避するために、やむを得ず「減債基金」という府の基金を取り崩しました。自治体の貯金に当たるものですが、橋下氏が言うように「使ってはいけない禁じ手」と位置づけられる基金であることは承知の上で、大阪の自治を守るために、府民の生活を守るために、総務省の助言の下で取り崩しを行ったものです。

資料1:府税収入の推移

出典:大阪府HP/平成31年度 グラフで見る府税

国の管理になれば、「鉛筆1本買うにも国の承認がいる」と例えられるほど自治を失うことになり、北海道夕張市で起きたような、公共サービスの著しいリストラを一気に行うことになれば、府民の生活に大きな悪影響を及ぼします。

いわば、減債基金の取り崩しは大阪府を倒産させないための運転資金の確保でした。

橋下氏らが「使ってはいけない」とよく言われる、その「使ってはいけない」根拠について確認しておくと、まず違法性は全くありません。減債基金とは、府の借金(府債)を返すためにお金をあらかじめ確保し、不景気で税収が大幅減となるなどの事態になっても安定的に財政を運営するために積み立てておくものです。

ですから、通常、取り崩しは禁じ手、といわれる訳ですが、2000年代前半は、これ以上借金ができない、しかし自治は失うわけにいかないという危機的局面を迎え、最終手段として基金取り崩ししかない、という結論に至ったものです。

この際ですから申し上げると、地方財政のプロとして総務省から大阪府に出向していた職員が府庁の職員と議論し、本省の意向も汲みながら基金活用のスキームを組んだようです。私が知事になる前の段階から模索していたとの話もありますが、そこは私も確かめようがありませんし、私の在任中に取り崩しを行ったのは、もちろん私の責任に帰するものです。

取り崩しにあたっては、当然のことながら大阪府議会の承認が必要です。賛成の議決をいただいた際には、のちに府知事に就任される松井一郎氏(現日本維新の会代表、大阪市長)も府議会議員として賛成しておられます。

つまり、橋下氏が知事時代から「非常に優秀」と評価する府庁のスペシャリストの知恵と、議会(当時の民意)の皆様の承認など、正規の手続きを踏んで行ったということです。

今になって、テレビで私の「個人犯罪」のように矮小化するのは、なんの意図なのか全くわかりませんが、もし当時、橋下氏が知事として当時の条件下で別の具体策があったというのであればお聞かせ願いたい。東京への本社移転が加速する状況下で、バブルが崩壊し、私が知事になった当時の基幹税である法人二税の税収は、バブル期の約8,000億円から半減するなど、税収の落ち込みは惨憺たるものだったのです。

税収急減の一方で、府債償還の波が府政を襲いました。1992年のバブル崩壊後、数次にわたる国の経済対策で、大阪府は多くの公共事業を実施し(資料2参照)、国への協力の責務を果たしながら、インフラ整備や施設整備を進めてきたのです。その事業費はピーク時に7300億円、1992年から2000年の間の累計では5兆円を超え、その借金返し(償還)に追われたのが、まさに私の在任時でした(資料2参照、太田府政はH12〜H19)。

資料2:歳出決算額(性質別)(一般会計)

出典:大阪府HP/財政ノート 令和元年9月

そういう中で、府庁の財政を中心としたプロと議論して「それしか手がない」という結論に至ったのが減債基金の取り崩しです。

税収減(歳入減)と巨大建設事業への償還(歳出増)、この2つの大波の中ではありましたが、私は一方で行財政改革を断行して歳出を削減し、他方で「未来への投資」は実行しました(資料3参照)。

資料3:大阪府決算額推移・実質収支(一般会計)

2007年7月に完成した関西国際空港2期工事。2本目の滑走路ができて、「空港の24時間化」が実現できました。これによって、関空を通ずるものづくりのグローバル化(=電子部品や製薬などのサプライチェーン)が進んだ他、「コロナ前までの」関西へのインバウンド急増につながったのです。また、シャープ(当時)の大工場誘致で総額1兆円投資が実現し、大阪ベイエリアの活性化に寄与できました。

彩都や箕面新町といったまちづくり、第2名神や大和川左岸線といった大阪の将来に必須の公共事業。さらには、文楽への補助金、落語を楽しんでもらう繁昌亭などの文化。福祉医療を含む福祉も大切にしました。文化や福祉がなければ大阪という街は成立しないと考えたからです。

いわば「削るべきは削り、やるべきはやる」というバランス経営の中で、金庫にたまった借金証書をなだらかに、しかし着実に減らしていく計画でした。

「身を切る改革」を殊更に最優先する維新府政とは、府政運営の考え方が大きく異なっていたと言ってよいと思います。もちろん、私自身を含む公務員給与は常に2~3割削減していたところも違いません。

後編に続く