オオカミ少年になってしまった西浦教授

篠田 英朗

感染者 1日10人の入国で3か月後に大規模流行” 専門家」という記事が、少し前にあった。

特に大きな波風も立てずにやり過ごされてしまったのだが、この記事で相変わらず「日本のミスター専門家」という位置づけになっていたのが、西浦博・北海道大学教授であった。

西浦氏(FCCJ公式YouTubeより)

最も国民を脅かした者が、最もコロナ対策に貢献した者だ、という信念を持つ人々の間では、西浦教授はカリスマ教祖のように扱われている。しかし、「42万人死ぬ!」の効果は、続けては使えない。オオカミ少年のように扱われてしまうからだ。

無論、国境を越えた人の移動の回復にリスクが伴うことは当然であり、相当な準備を施しておくことが必要である。私自身も繰り返してそのことを書いてきている。

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しかしそれにしても西浦教授の「入国」問題に関する「予言」は、意味がよくわからないものだった。その理由を三つ挙げてみよう。

第一に、「大規模流行が起こる」というのが殺し文句になっているのだが、何をもって「大規模流行」とするのかが、まったく説明されていない。「42万人死ぬ!」のときに数字を使って脅かして、後で議論になったという経験を踏まえて、「大規模流行が起こる!」という抽象的な言い方だけにとどめる作戦のようだ。だがそれは、科学者らしからぬ態度ではないだろうか。

西浦教授は、5月15日、小池都知事とともに東京都の動画に出演し、緊急事態宣言が解除されて元の生活に戻ったら、その2週間後から感染者数が激増し始め、一日200人の新規感染者数を超え、さらに指数関数的に激増し続けると、断言口調で、予言した。

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この「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。西浦教授の「予言」によれば、人と人との接触の2~3割減くらいでは、結果はほとんど変わらない。

この人と人との接触の削減は、かつての西浦教授の専門家会議記者会見での熱弁によれば、渋谷駅と難波駅の人の移動のデータによって測定される。6月になってからの駅での人の移動はせいぜい平時の2~3割減程度のレベルにまで戻ってきているので、全東京都都民に「さらにいっそう人と人との接触を減らしてください!」のアピールの根拠となった「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。

緊急事態宣言中の東京・渋田(5月撮影:jamessharpe2/flickr)

もっとも実は西浦教授は非常に意地悪な方で、あるいは舌足らずな方であるかもしれない。「西浦モデル2.0」の中に、誰も言っていなかった「海外からの入国の全面的な回復」といった意味を勝手に含みこませていたのだという可能性もあるのかもしれない。そうすると、「西浦モデル2.0」の解釈の幅は大きく変わってくる。5月15日の動画の目的は、今一度東京都民を震え上がらせて家から出れないようにすることだったので、わざとそのことにはふれなかった、という事情があったのかもしれない。

しかし、もしそうだとすれば、一日10人の感染者の入国措置による「大規模流行」とは、せいぜい3月末に見た新規感染者数の増加が再び見られるようになる、というだけの話で、つまり感染者の入国者を止める前の状態に戻すと、感染者の入国者を止める前の状態に戻る、という恐ろしく平凡な話であっただけに終わってしまう。

いずれにせよ科学者であれば、「大規模流行が起こる」といった抽象的で中身が全く不明瞭な言葉を使って、マスコミの露出度を高めることだけを狙った行動をとるのは、控えるべきだ。

第二に、西浦教授は、相変わらず自分の計算式の条件を全く語らない。たとえば入国想定する10人の感染者が、入国後にどのような行動をとるか、どれくらいの期間日本に滞在するか、どれくらいの感染率がある地域から入ってくるか、等によって、試算結果が変わるはずであるのは、言うまでもない。何をもって平均値の根拠とするかによって、試算結果は全く異なるものになる。その根拠の妥当性を議論するのが、科学というものだろう。ところが西浦教授は、常に一貫して、計算根拠を明らかにしない。

かつて西浦教授は、記者会見の場で、データ開示を求めるメディアに対して、忙しいのでできない、と答えたこともあった。SNSを通じた自らの主張の発信に熱を入れながら、そう答えていたことがあった。

通常は、将来の予測モデルは、妥当と言える変数の範囲を定めて、現実的に予測される範囲で最悪の場合に・・・、といった言い方で、結果を示すものだ。しかし、西浦教授は、あたかも世界の真理を知っているかのように、常に断言調で、ただ一つの結果の可能性だけを告げる。

西浦教授が付け加えるのは、「1億2千5百万人の国民の生活の全てにおける人と人の接触の8割の削減」といった絶対に測定不可能な抽象理念だけであり、その抽象理念に付属する数字だけである。「入国感染者10人の場合」というのも実は同じで、決まりきった行動しかしない「ミスター感染者」といったロボットが次々と入国してくるわけではない現実からすれば、極度に抽象化された話である。

「42万人死ぬ!」の時には、4月15日の感染者増加率が明らかに鈍化していた時期になってもなお基本再生産数2.5という現実から乖離した条件に固執していたため、議論を呼んだ。そこで最近では基本再生産数を下方修正して計算しているようだが、「ミスター専門家」西浦教授がその時々の気分や決断で判断した計算式が、絶対に正しいなどという保証は、もちろんどこにもない。科学者として真摯に行動するのであれば、自らの計算の根拠やデータを、すべて公に明らかにして、公平な精査を仰ぐべきではないか。

ちなみに基本再生産数2.5は欧州において記録されたことがあるというが、欧州の被害が世界的に見て高すぎるのである。数多くの日本の科学者は、「欧米が世界の中心です」という価値観に染まっており、せいぜい「アジアに日本以外にも国があることは知っています」程度の世界観で生きている。

しかし、西浦教授が研究滞在したイギリスのインペリアル・カレッジの有名教授でも、見込み違いの見解で批判されいるのが現実だ。「世界の中心は欧米だ、俺は世界の中心を知っている」という態度ではなく、目の前の現実を真摯に見据えて、自分の見解の根拠を常に公にさらしていく態度が、研究者としてのあるべき姿ではないだろうか。

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第三に、西浦教授は、いつも根拠不明な踏み込んだ主張をしすぎる。入国感染者による「大規模感染」の件でも、「多数の感染者が入国すると検疫で食い止めるのは限界があるので、入国者そのものを制限する必要がある」と主張している。

だが、検疫体制がどうなるかは、まだ将来にわたって整備される話であり、そもそも感染症数理モデルによって証明できる話ではない。それにもかかわらず、西浦教授は、単なる個人的な憶測だけを振り回して、断定的な結論を正当化するだけでなく、他人の糾弾までするのである。

西浦教授は、「制限の緩和については政府が判断をしているが、感染リスクをどこまで踏まえているのか、透明性をもって明確に語られていない状態だ」と語り、「検疫や入国制限は省庁の管轄がそれぞれ異なり、縦割りの状態にある。政府が一体となって、感染者が入国するリスクを分析し、制限を掛けたり緩和したりする仕組みを急いで作らなければならない」とも述べる(参照:相川哲弥氏ブログ)。

しかし不透明なのは、西浦教授のこうした断定的な発言の根拠のほうだ。政府はまだ入国について何も目立った判断をしていない。ただ西浦教授が「大規模感染起こる!」と脅かしているだけの状態である。それなのになぜ西浦教授ではなく、政府のほうが、「制限の緩和については政府が判断をしているが、透明性をもって明確に語られていない状態だ」などと言われなければならないのか。西浦教授は、政府批判に熱を入れる前に、まず科学者として真摯な態度で、自らの「制限の緩和モデル」の判断の根拠を、公の議論にさらしていくべきだ。

SNSでは、西浦教授が、クラスター対策班に入ってからの報酬の辞退を希望したということが、英雄的な美談として扱われている。

西浦教授としては、妻の柏木知子氏が小樽検疫所勤務の厚労省医系技官であり、その上司の石川直子厚労省医系技官が専門家会議副座長を務める尾身茂氏が理事長を務める地域医療機能推進機構の理事であり、その人的関係が「厚労科研」の流れに関する議論の対象になったりすることもあるため、自重したという背景もあるのかもしれない。

「医系技官」が狂わせた日本の「新型コロナ」対策(下)|   新潮フォーサイト:上昌広氏

だが西浦教授が、毎日厚労省に通勤してデータを独占していたにもかかわらず、しかし「独立性」を主張して、正規のメンバーではない専門家会議の記者会見に現れて座長の発言と一致しない内容を断定的に述べたり、「クーデター」を起こして「42万人死ぬ!」を一斉にマスコミに流したり、政府の方針に真っ向から挑戦して「感染者ゼロ」を目指す国民運動を厚労省の中から主導していた事態は、果たして「報酬をもらわなかった」ということによって、全て綺麗さっぱりと清算される事柄なのか。

独立した研究がしたいなら、大学で研究に専念し、一人の在野の研究者として発言をすればいい。

報酬さえもらわなければ、厚労省内部にべったりくっつきながら、その一方で一切責任をとることもなく国民を脅かす発言をし続けてもいいのか。それが真摯な研究者のあるべき理想の姿なのか。あらためて疑問が残る。