「教皇不可謬説」は誤解されやすい。カトリック教会の説明によると、ローマ教皇が教会の伝統として教えてきた信仰と道徳に関する内容を教皇座(エクス・カテドラ、ex cathedra)から宣言した場合、という条件を満たした時、「教皇不可謬」が当てはまるという。
「教皇不可謬説」の場合には、教皇は教会の伝統に矛盾せず、神学者や私人の立場ではなく、世界教会の霊的指導者として一定の手順を踏まえて語る場合、「教皇は絶対に間違わない」というわけだ。
例を挙げて説明してみる。フランシスコ教皇は2015年1月19日、スリランカ、フィリピン訪問後の帰国途上の機内記者会見で、同行記者団から避妊問題で質問を受けた時、避妊手段を禁止しているカトリック教義を擁護しながらも、「キリスト者はベルトコンベアで大量生産するように子供を多く生む必要はない。カトリック信者がウサギのようになる必要はない」と述べ、批判の声が上がった。多産国家のフィリピンでローマ教皇は中絶を避ける防止策として、避妊を間接的に勧めたと受け取られたからだ。これはフランシスコ教皇の失言で「教皇不可謬」の対象とはならない。教皇座からの発言ではない。その上、教会の伝統とは一致しないからだ。
失言が多い南米出身のフランシスコ教皇の場合、機内での記者会見の内容までそのドグマが及ぶならば、息苦しくて何も語れなくなるだろう。換言すれば、フランシスコ教皇は外遊先で失言したり、時には教義から脱線するような発言をしたとしても、「教皇不可謬説」の対象外だから大きな問題とはならない。教皇は間違うし、間違ってもいいわけだ。ただ、バチカン報道官がその後始末のために弁明に追われるだけだ。
「教皇不可謬説」は1870年7月、第1バチカン公会議で教義(ドグマ)として宣言されたが、その内容自体は初代教会からの伝統だった。「教皇不可謬説」が公式にドグマと宣言されるまで紆余曲折があった。決して安産ではなかったのだ。
第1バチカン公会議は1869年12月8日、ピウス9世(在位1846~1878年)の招請で開催された。公会議の教会史では最大規模の791人が結集し、「教皇不可謬説」をドグマとする否かで協議されたが、意見が分かれ、多くの司教、神父たちが公会議から退出するというハプニングが起きている。「教皇不可謬説」がドグマとなれば、カトリック教義の乱用への道を開く、というのがその主要な批判点だった。
「教皇不可謬説」のドグマ化に反対する者は米国、英国、フランス、ドイツの著名な神学者が多かった。教皇を中心としたバチカン中央集権的な教会運営に多くの教会改革派は懸念を有していた。ピウス9世はカトリック教義の絶対性を主張し、教会改革派を批判、近代主義者、自由主義の誤謬を文書でまとめているほどだ(通称「誤謬表」)。
公会議の「準備会議」では参加者601人中、「教皇不可謬」のドグマ化に賛成は451人、反対は88人、修正要求は62人だった。教皇の教義決定は司教たちの支持がある場合だけに認知されるという調停案が提出されたが、十分な支持は得られなかった。そこでピウス9世反対派の57人が会議から退出した。
最終的には、1870年7月18日、反対は2票だけで、「教皇不可謬」はドグマとして宣言された。ちょうど150年前のことだ。第1バチカン公会議は1870年のフランス帝国とプロイセン王国間の戦争〈普仏戦争)のために中止された後、再度開会されることはなかった。その約90年後、第2バチカン公会議が1962年、ヨハネ23世(在位1958~63年)の提唱で開催され、教会の近代化が協議され、司教の合法性が認められ、ローマ教皇と共に司教たちが世界教会の運営、決定に参加することになったが、明確な決定とは受け取られなかった。
「教皇不可謬」がドグマと宣言されたことを受け、多くの知識人が教会から出ていった。ローマ主導の教会運営に抗議した司教、神父たちがバチカン主導のローマ・カトリック教会から脱会し、オールド・カトリック教会(復古カトリック教会)に合流していった。代表的な神学者としては、ドイツのヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーだ。彼らは教皇の承諾を得ず、司教を叙階したとしてバチカンから批判を受けた。ピウス9世は当時、「教会の土台を壊す者たちだ」と批判している。また、世界的神学者、ハンス・キュンク氏も後日、「教会不可謬」のドグマを批判したために、聖職を失った一人だ。
ちなみに、教皇がその後、教皇座から宣言したドグマは1回だけだ。ピウス12世(在位1939~1958年)が1950年、聖母マリアの肉体昇天、「聖母の被昇天」を正式に教義と宣言した。同12世はこれまで第1バチカン公会議で決定した「教皇の不可謬」を行使した唯一の教皇だ。バチカンは第1公会議で教会が分裂した苦い体験に懲りたわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年7月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。