ドイツのローマ・カトリック教会バンベルク大司教区のルートヴィヒ・シック大司教は、「コロナ禍の時だけに、アウシュビッツ強制収容所で他の囚人のために自分の命を捧げたポーランド人のマクシミリアン・コルベ神父の生き方を思い出し、そこから学ばなければならない」と指摘した。8月14日はフランシスコ会のコルベ神父の殉教の日だ。シック大司教は追悼礼拝の中で語った。バチカン・ニュース独語版が14日、報じた。
ドイツ教会司教会議の世界教会委員会議長であり、マクシミリアン・コルベ神父基金評議会議長を務めるシック大司教はアウシュビッツ近郊で開催した欧州ワークショップで、コルベ神父をイエス・キリストの宣教師と称え、「コルベ神父の最大の関心事は私たちが全て神から愛され、イエスが我々を愛したように、相互に愛することのできる能力を有することを人々に伝えることにあった」と説明した。
コルベ神父は1941年8月14日、アウシュビッツ強制収容所で2人の子供の父親ポーランド人軍曹、フランツェク・ガイオニチェク(Franciszek Gajowniczek)を救うために自分の命を捧げ、餓死刑に処され、最後は毒注射で殺された。コルベ神父は47歳だった。聖母マリア崇拝が強かったコルベ神父は「聖母の被昇天の日」(8月15日)の1日前に殺されたわけだ。
強制収容所所長が1941年7月末、「脱走しようとした囚人の刑罰だ」として囚人から10人を選び、餓死刑にすると言い伝えた。その時、コルベ神父は、「死ななければならない囚人の代わりに、私が死にます。私には妻も子供もいません」と申し出た。
イエスは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(「ヨハネによる福音書」第15章13節)と語っているが、コルベ神父はイエスの教えに忠実に生きた。同神父は1982年10月10日、故ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列聖された。コルベ神父は「アウシュビッツの聖者」と呼ばれている。なお、コルベ神父によって救われたガイオ二ェク氏は強制収容所を妻と共に生き延びた。その後、コルベ神父の行為を世界に証し、コルベ神父の列聖式にも参加した。
参考までに、コルベ神父はフランシスコ会に所属し、上海に宣教に行った後、1930年4月、長崎に渡っている。36年にポーランドに帰国した。日本のキリスト信者はコルベ神父とは強い繋がりを感じている。
長崎の聖コルベ館の公式サイトによると、「1930年4月24日、36歳のコルベ神父は『けがれなき聖母マリアを全世界の人々に示す』という大きな夢を持ち、数名のポーランド人修道士達と共に、東方への宣教に乗り出します。その場所が長崎でした。同年5月、長崎に上陸したコルベ神父は、大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を始めた」と紹介している。
シック大司教は、「私たちは今、新型コロナウイルスの感染に襲われ、苦しんでいる。この時こそ、コルベ神父の生き方からインスピレーションを受け、イエスの福音を延べ伝えるべきだ。それによって、他を犠牲とするエゴイズム、人種主義、民族主義の拡大を防ぐことができる」と主張し、「戦後、75年が経過した。欧州では平和が定着してきたが、平和は壊れやすい。それだけに、我々は常に平和のために努力しなければならない。コルベ神父がしたように、愛の共有、尊敬と寛容、相互援助の精神のイエスの福音を延べ伝えなけれならない」と強調している。
フランシスコ教皇は12、コルベ神父の追悼に関連し、「我々は常に神に愛されている、かけがえのない存在だ。神から忘れられた人はいない。そのことを思い出せば、人生でのさまざまな厳しい状況に負けずに生きて行く力を得る」と、ツイッターで述べている。
多くのキリスト者たちはコルベ神父の行為を通じて人間の尊厳さ、素晴らしさを教えられ、生きる力を得てきた。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである、しかし、もし死んだならば、豊かに実を結ぶようになる」(「ヨハネ福音書」第12章24節)といったイエスの言葉が蘇るわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年8月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。