内閣改造に比べると扱いが小さいが、今井尚哉首相補佐官、佐伯耕三首相秘書官、長谷川栄一内閣広報官が退任した。いずれも経産省出身の「官邸官僚」と呼ばれた人々である。他の秘書官は留任したので、菅首相の経産省との絶縁ともいえよう。特に今井氏は経済政策だけではなく最近は外交も仕切る司令塔だったので、この影響は大きい。
今井氏といえば多くの人が思い出すのが、2016年の伊勢志摩サミットのプレゼンである。安倍首相はサミットで各国首脳にこの図を見せて「商品価格がリーマンショック前後での下落幅である55%と同じ」で「リーマン級の経済危機の再燃を警戒する」と説明した。
ちょっと見ると商品相場の暴落が原因でリーマンが破綻したようだが、因果関係は逆である。サブプライムローンに巨額の不良債権が発生していることが表面化したのは2007年8月で、2008年5月には投資銀行ベア・スターンズの経営が破綻した。これが図の左のピークに対応し、投機資金が引き上げたため商品相場が暴落した。
2008年9月に最大手のリーマンが救済されなかったため、全世界がパニックに陥ったが、「リーマンショック」などという言葉を使うのは日本だけで、リーマン破綻は不動産債券のデフォルトの結果である。つまり商品相場の暴落は金融危機の原因ではなく結果だったのだ。
このパワーポイントは経済産業研究所のつくったもので、ファイルの作成者は「今井尚哉」となっていた(のちに今井氏も文藝春秋のインタビューで認めた)。これはサミットで各国首脳から批判を浴び、世界のメディアに嘲笑された。安倍首相もサミット後の記者会見で「リーマン級の事態は発生していない」と認めた。
経済を知らない経済官僚
この牽強付会なプレゼンの目的は、2017年4月に延期されていた消費税率の10%への引き上げを再延期するため「リーマン級の事態が発生した」と説明することだった。今井氏は部下に命じて国内の政局向けに「リーマン級」の数字をさがしたのだろうが、その本質が債務危機だということを理解していなかった。
アベノミクスの特徴はマクロ経済政策による景気刺激の連続だったが、それはこういう初歩的な誤解にもとづくものだった。これは今井氏だけの欠陥ではなく、日本の経済官僚の主流はいまだに東大法学部卒なので、市場経済のメカニズムを理解していない。財務省の太田事務次官も日銀の黒田総裁も東大法学部卒である。
彼らの共通点は偏差値エリートなので、株価や財政赤字やインフレ率などの目先の成績にこだわるバイアスが強いことだ。安倍政権でこれだけ景気刺激を続けたのに、次の図のように潜在成長率はゼロに近づき、今年はマイナスになるだろう。この構造的な原因は民間の生産性(TFP)上昇率の低下なので、財政・金融政策で上げることはできない。
政治化する経済政策
東大法学部のもう一つの特徴は、政治的に容易な問題から手をつけることだ。霞ヶ関で優秀な官僚は受験秀才ではなく、自民党と取引して省益を実現する「ワル」だ。彼らの武器は経済的合理性ではなく、政治家に便宜供与できるGo Toのような裁量的補助金である。それが政治的には成功し、安倍政権の求心力は高まった。
量的緩和でインフレにはならなかったが、株価は上がり、内閣支持率も上がった。「政権の安定が目的で、政策はその手段」という今井氏の信条は、短命政権が続いた日本ではリアリズムともいえるが、経済政策は「政治化」して短期的になり、31兆円の補正予算が1ヶ月で決まるようになった。
その結果起こったのは、日本経済の国営化である。今年度の当初予算と補正予算を合計した一般会計の規模は160兆円を上回り、GDPの30%を占める。このままでは超高齢社会に向かう中で、現役世代の負担増は避けられない。今の老人福祉に片寄った社会保障制度が、2030年代に維持できなくなることも確実だ。
菅首相は「アベノミクスを継承する」というが、その重点は今井氏のような産業政策ではないだろう。もちろん黒田氏の量的緩和でもない。いま重要なのは財政と金融の協調だから、官邸と財務省の関係を修復する必要がある。
財務省もマイナス金利の状況ではプライマリーバランスへのこだわりを捨て、成長率を最大化する最適な財政赤字を考えるべきだ。太田氏は野田首相の秘書官として消費税の増税を実現したが、財政赤字については柔軟だともいわれるので、軌道修正に期待したい。