「纏向も箸墓も4世紀」の衝撃:『考古学から見た邪馬台国大和説』 --- 浦野 文孝

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関川尚功氏の『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年9月)を読んだ。副題からも分かるように、関川氏は以前から畿内説に疑問を投げかけている。本書はその集大成と言える。

箸墓古墳( marko_tokyo/写真AC)

最も重要なことは、「箸墓古墳と纏向遺跡の発展は4世紀」としていることだ。これは畿内説を根底からくつがえす。卑弥呼が魏に使いを送ったのはAD239年。邪馬台国は3世紀に存在した国だからである。

3世紀頃の大和盆地において、北部九州の諸国を統属し、魏王朝と頻繁な交流を行ったという邪馬台国の存在を想定することはできない。大和地域の遺跡や墳墓、そして各種の遺物にみる考古学的事実の示すところは、明確に邪馬台国の大和における存在を否定している…
※『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年9月)

関川氏は橿原考古学研究所で纏向をはじめ数々の発掘を手がけた。その見解は重い。

畿内説は纏向という都市が営まれ、箸墓という巨大前方後円墳が築かれたことが最大の根拠だった。例えば、纒向学研究センターの寺澤薫氏は以下のように断言する。

纏向遺跡は三世紀の初めに忽然として出現した巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており、ヤマト王権のシンボルともいえる前方後円墳がここで誕生している…。三世紀の前半という時間幅で日本列島を切ったときに、これだけの要素をもった遺跡は他にあるでしょうか。ないだろうと思われます。…

考古学的に見て、三世紀前半の政治の中心は纏向遺跡以外は考えられません。とすれば、自動的に、卑弥呼の政権中枢が置かれていた場所は纏向遺跡であり、そこは邪馬台国の領域内であったことになります。
※『纏向発見と邪馬台国の全貌』(角川文化振興財団、2016年)「王権はいかにして誕生したか」

3世紀の大和は後進国だった

関川氏の見解は畿内説と真っ向から対立する。全体的に慎重な言い回しながらも、3世紀の大和は後進地域であり、先進地域だった九州北部とは比べられないとする。関川氏の提示する主な考古学の成果を、私なりに整理すると以下のとおりである。

・環濠を持たず、遺跡内外との区別が明確でなく、計画的な集落とは言えない。南北の遺跡と連なり、全く何もないところに出現したわけではない。

・大型建物跡は初期の遺構だが、中心とされる建物Dは主柱の半数以上が失われて全体像が分からない。建物跡はその後に削られ、中枢だったかは疑問。

・大和には、吉備(岡山県)の楯築(たてつき)墳丘墓のような首長クラスの大型墳丘墓がなく、それは纏向でも変わらない。九州北部と違って、副葬品も認められない。

・外来性土器の多くは東海系(伊勢・近江等)であり、九州北部との関係は見られない。纏向以前の唐古・鍵遺跡と同じ傾向。

・鉄器の鍛冶は纏向以前の大和では見られなかったものだが、鉄鏃のような小製品が主体。

・墳墓出土の銅鏡は皆無。直接的な対外交流の痕跡がない。

・炭素14年代測定法は、測定試料が信頼できるのか、冷静な判断が必要。

関川氏の結論は以下となる。

箸墓古墳の造営が始まり、纏向遺跡が最も拡大化する…時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国と同時代の箸墓古墳や纏向遺跡が存在するなどということは、ありえることではない…。

北部九州と近畿大和との関係が変わり始めるのは…卑弥呼の時代よりさらに後のことである。
※『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年9月)

畿内説の寺澤氏も、邪馬台国以前の大和に、纏向を建設するだけの政治権力が見出せないことは認め、3世紀初めに外部勢力によって突然誕生したとする。前方後円墳の形状と副葬品から、纏向は伊都国(福岡県)と吉備の政治的談合によって出現したという説を唱えている。

私は纏向が外部勢力によって生まれたとすることには賛成だが、短期間で生まれ変わったという寺澤氏の見解にはかなりの無理があるように感じられる。畿内説には説得力がないのではないか。

大和も画文帯神獣鏡を積極的に入手した

一方、関川氏への疑問もある。邪馬台国時代の大和は、本当に中国との交流がなかったのだろうか。

纏向のホケノ山古墳や近接する黒塚古墳をはじめ大和の古墳では、画文帯(がもんたい)神獣鏡が出土している。縁が平らな鏡である。棺の中に1つだけ副葬されており、大切な鏡だったことがうかがえる。

出土は近畿に集中する。2~3世紀に製作された鏡とされ、大阪府では「景初三年」(239年)の紀年銘鏡も出土した。江南発祥だが、その後各地で流行し、華北の徐州も製作の中心地とされる。

大手前大学の森下章司氏は「近畿地方の勢力が中心となって入手した種類の鏡であることはまちがいありません。時期は二世紀後半から三世紀初めのことになります」と述べている。※『纏向発見と邪馬台国の全貌』(角川文化振興財団、2016年)「銅鏡からみた邪馬台国時代の倭と中国」

関川氏が画文帯神獣鏡に触れていないのは、ホケノ山や黒塚を3世紀の古墳と見ていないからだと思われる。そうだとしても、中国で長期間使われた鏡が日本に持ち込まれることは想定しづらい。遅くとも3世紀を中心に大和の勢力が入手し、古墳に副葬するまで保有したのではないだろうか。

卑弥呼の「銅鏡百枚」の前から、大和は中国との交流があったと思われる。関川氏に聞いてみたい。

私は邪馬台国について、アゴラに2つの記事を投稿した。

邪馬台国九州・畿内並存説~魏志倭人伝の矛盾を解く(20年11月22日)

邪馬台国まで「1万2000余里=観念的数字説」を斬る(20年12月20日)

私の説のポイントは2つある。1つは、九州・山門の邪馬台国からの移住によって、大和にも邪馬台国が成立したということ。もう1つは、山門の邪馬台国は熊襲に滅ぼされたが、大和の邪馬台国は大和政権に発展し、九州や東国に遠征して古代統一国家の始まりとなったということである。

並存説は関川氏の見解と矛盾しない。私も大和は3世紀に緩やかに発展したと考えている。

1月1日にNHK-BSプレミアムで「邪馬台国サミット2021」が放映された。九州説の有力な根拠である、帯方郡から邪馬台国までの総距離「1万2000余里」についての議論がなかったのが残念である。

番組では纏向の大型建物等のイメージが繰り返し流れていたが、関川氏は纏向遺跡や箸墓古墳には、まだ分からないことが多いと警鐘を鳴らしている。

浦野 文孝
千葉市在住。歴史や政治に関心のある一般市民。