清朝領土がなぜ中国領土に引き継がれたか国際法的解説

辛亥革命の国際法的な位置づけを含めた正しい経緯を日本人は余り知らないだろうが、以下の通りである。

孫文が民族自決をしたいというので日本人は援助したのが、袁世凱と取引して漢民族が他民族を支配する構造に換骨奪胎したわけだ。瞞されたというべきだが、法的には文句の言いようがなかった。そういう経緯を正しく踏まえないで文句を言っても、世界では通用しない。しかし、道義的に酷い話であることも確かだ。

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1911年10月10日に湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)をきっかけに辛亥革命が勃発すると、清国宮廷は袁世凱を第2代内閣総理大臣に任命した。

袁世凱 Wikipedia

一方、1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。1月3日、正式に中華民国臨時政府が成立した。

この段階では列強は清朝をもって政府として扱っている。

孫文 Wikipedia

しかし、孫文は袁世凱と交渉し、宣統帝を退位させ袁世凱が中華民国臨時大総統に就任する、清朝皇室に対しては引き続き礼遇を保証するという条件で話がまとまり、隆裕皇太后が皇族を集めて御前会議を開いた。最終的には隆裕皇太后が決断し、1912年2月に宣統帝は退位した。

宣統帝こと愛新覚羅溥儀 Wikipedia

溥儀の皇帝退位にあたり、清朝政府と中華民国政府との間に「清帝退位優待条件」が締結されたが、主要な内容は以下の通り。

①皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、中華民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇すること。
②溥儀が引き続き紫禁城と頤和園を確保し、生活できること。
③中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護すること。
④蒙古人貴族の待遇も保証する。などが取りきめられた。

溥儀は退位後も紫禁城で宦官らと皇帝としての生活をし、袁世凱は中南海に住んだ。これが映画「ラストエンペラー」の時代の状況である。

しかし、袁世凱らの中華民国政府は、上記の条件を守らなくなり、とくに、陵墓を暴いたので、溥儀は天津で日本軍の保護化に入り、その延長線上で満州国樹立などがある。

したがって、清国から中華民国への国家継承は完全なかたちで行われており、日本を含めて各国はこれを承認せざるをえなかった。