道路遊びや路上ライブなど「道路の不正使用」を擁護する左派の怪

川畑 一樹

道路は遊ぶ場所ではない。表現する場所でもない。人や車両などが往来する場所である。そのため、道路遊びや路上ライブは本来許されない行為であり、いわば道路の不正使用である。いわゆる「道路族」が社会問題化し、筆者の問い合わせに対し警視庁が「路上ライブを見かけた際は110番通報をしてください」と回答するなど、道路の不正使用に対する社会的な風当たりは強まりつつある。

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一方で道路の不正使用を容認すべきという主張もある。顕著なのは『朝日新聞』や『東京新聞』など左寄りの立場をとる一部報道機関である。これらの報道機関は道路の不正使用を容認する記事を掲載している。例えば『東京新聞』の場合、子どもの遊び場所確保のためだけに道路を封鎖する「遊戯道路」を一面的に賛美する記事を掲載した(『東京新聞』2017年5月5日付朝刊)。『朝日新聞』でも過去、路上ライブを一面的に賛美する記事を掲載した(『朝日新聞』2012年10月27日付夕刊)。

いうまでもなく、新聞などのマスコミが不正行為を扇動するようなことは絶対にあってはならないし、読者もそれに対し批判的になるべきである。にもかかわらず道路の不正使用に関してはそれを容認・賛美する記事をマスコミが掲載し、受け手もそれを平然と受容している。左派のみならず右派でもイデオロギー色を前面に押し出すマスコミが増殖する昨今、左寄りの新聞の読者も左派が多くを占めることは容易に想像がつく。左派も政権や資本に対する不正には非常に敏感だが、道路の不正使用に関しては無頓着どころかそれを賛美するという体たらくである。なぜ左派が道路の不正使用を容認・賛美する事態が発生してしまうのか。筆者は二つの要因があると考えられる。

一つ目は階級闘争史観的な道路観である。これは、道路は本来「市民」のためにある場所だが、警察などの国家権力、あるいは物流業界などの資本により不正に独占されている、だから「市民」の手に取り戻すべきだという道路観である。この道路観が一番露骨に表れているのはデモの類で、道路使用許可などを取らず道路を不正に占拠し政治的主張を行うことがたびたび起きている。そしてこの階級闘争史観的な道路観を道路遊びや路上ライブの擁護にも敷衍しているのではないかと考えられる。つまり、道路では遊ぶ権利や表現する権利があり、それを警察や道路を利用する事業者などにより不正に奪われている、だから道路遊びや路上ライブを通じ道路に関する権利を取り戻すという考えである。

一見それなりの説得力を持つ議論のように見えるが、「自分と異なる他者」の存在がまるで欠落しているという点において詭弁であると考えられる。いうなれば、道路を使い移動しようとしても道路遊びや路上ライブにより移動できなくなる人や、道路遊びや路上ライブで出る騒音に苦しめられる人の存在がこの議論からは完全に欠落している。移動できなくなる人も騒音で苦しめられる人も権力や資本の立場にはないことがほとんどである。このような齟齬が発生する要因としては、恐らく左派の措定する「市民」が一枚岩であり、権力や資本の前では「市民」同士で争わず団結すべきという考えがあり、そこには市民による道路の不正使用により被害を受ける別の市民の存在を考慮しないということがあると考えられる。このような素朴な「搾取する権力・資本―搾取される市民」というモデルは多様な人が存在する現代社会においてどれだけ通用するかは大いに疑問である。

二つ目は「寛容性」というものに対する信仰である。道路の不正使用により騒音などの被害を受けたと感じたとしても、それは感じた人の「寛容性」が足りないからだという主張は頻繁に目にする。この際、被害を感じた人に「寛容性」さえあれば道路の不正使用は問題化せず、道路遊びや路上ライブが正当化されるというロジックが成り立つ。しかし寛容性を持てというのは畢竟精神論である。加えて、被害を受けた人間に精神論を押し付け問題解決を図ろうとするのは、本質的には性犯罪やいじめの被害者に「あなたの行動にも問題がある」と非難する被害者バッシングと何ら変わらない。左派は犯罪やヘイトスピーチなどの被害者をバッシングすることはほとんどない。一方で道路の不正使用の被害者を「寛容性」という精神論を振りかざしバッシングすることを平然と行う。それはおそらく「寛容性」という言葉がマジックワードであり、その言葉さえ使えば何かを言った気になれるという、言葉や概念自体がある種の危うさを孕んでいることを反映しているからなのかもしれない。

何度も繰り返し書くが、道路は遊ぶ場所ではないし表現する場所でもなく、人や車両の往来の場所である。そのため、道路遊びや路上ライブといった道路の不正使用は糾弾されるべきである。左派は階級闘争史観的な道路観や「寛容性」への信仰により道路の不正使用を是認することが多い。しかし、道路の不正使用により被害を受けた人へも左派は目を配るべきではなかろうか。