日本から消えてしまった「風に立つライオン」

メスを捨てた後も、臨床に未練があった私は、さだまさしさんの「風に立つライオン」を聴くたびに胸に後悔が走っていた。

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私は医学部卒業後1年半後、小豆島の内海病院に赴任した。夜間や休日に病院で当直をしていると、知らぬ間に緊張感が高まった。小豆島に赴任前の1年間、大阪府立病院の救急医療専門診療科で3次救急(重症患者の救急医療)に従事し、患者の生死にかかわる場面を経験したとはいえ、一人で責任を負うのはかなりの負担だった。しかし、使命感に満ちた日々であった。

かなり環境は異なるとはいえ、アフリカの大地で医療活動に従事する医師の気持ちを伝える「風に立つライオン」の歌詞はいつも私の心を波立たせる。そして、今、心に響くのは「何より僕の患者たちの瞳の美しさ」の部分だ。官僚が「面従腹背」を座右の銘と言った時は強い反発を感じたが、今の政府を見ていると官僚たちが「面従腹背」と思う気持ちがわかるような気がする。濁った瞳と黒い腹を持たないと出世できない仕組みになっているのだ。

ある役所の会議に出ても、「青酸カリをオブラートで包んだ」ような発言ばかりだ。下手に逆らうといつオブラートを投げつけられるかわからない。多くの人は、予算を獲得して、論文を書くことが目的化しているので、机の下で予算という人参をぶら下げられるとしっぽを振るしかないのだ。池に石を投げて、波紋を広げると、その次からは仲間外れにされる社会になってしまった。そして、「やはり僕たちの国は残念だけど何か大切な処で道を間違えたようですね」には大きく頷くしかない。信念を持って生き抜く「風に立つライオン」がいなくなり、矜持を失って「飼い主にしっぽを振る犬」が増えてきたように思う。

私は風が吹くとよろけてしまい、自分自身の肉体的・精神的老化を感ずることが多くなってきたが、今のがん医療を変革する気持ちだけは失いたくない。自分で提供できる治療がなくなると、平然と死を待てと患者に告げるのが医療だろうか?標準化という過度なマニュアル化医療が進み、マニュアルが白紙になると終わりを告げる医療が正しいのか?その反面、患者さんが動けなくなるまで次から次と抗がん剤治療を提供して苦しめるのも医療とは思えない。

現在は制度疲弊しているので、ほころび部分だけを改めようと改善しても、継ぎはぎだらけで、余計にひずみが大きくなる。この国は、もがけばもがくほど沈みこくような底なし沼になってしまったのか?


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2021年3月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。