龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

慶應3年10月12日、京都駐在の幕府高官が二条城に集められ、大政奉還が通達された。その翌日には、10万石以上の40藩重役が二条城に呼び出され、大政奉還について書かれた文書を示され意見を問われた。

「大政奉還図」 Wikipediaより

このときは、どうも慶喜公は広間にはおらず、老中の板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」と説明した。慶喜公は残念ながらその場にもいなかったようだ。

さらに、希望者が慶喜公への謁見を許され、小松帯刀、後藤象二郎、福岡孝悌などが別室で慶喜公に意見を述べた。初めて慶喜公に拝謁した後藤が緊張のあまり汗だくになって汗をたらたら流したらしい。

私はこの日、酢屋から土佐屋敷の向かいにある近江屋に転居していたが、ここから、登城前の後藤に「建白が聞きいれられなかったときは、後藤さんは生きて帰られないでしょうが、私は大樹公(将軍)の参内を200丁のライフルを持った海援隊らと待ち受けて討ち取ります」と不退転の覚悟でやれと脅した手紙を書いた。

しばらくすることもないので、陸奥宗光に短刀を送る手紙など書き緊張をやわらげていたところ、「大樹公は政権を朝廷に返し、政事堂を設置し、上院・下院を設けることになった。千年に一度あるかないかのできごとで、天下万民のためにこの上ない喜びだ」と首尾よくいったとの手紙が後藤からもたらされた。

もっとも、上院・下院のことまで慶喜公はふれていなかったから、後藤の手紙には嘘があったのだが、とりあえずは、武力行使はしないことにした。

ただし、私がそのとき、「大樹公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給えるものかな。予、誓ってこの公のために一命を棄てん」などといったとか、その後、慶喜公中心の政権樹立に奔走したなどと言うのには誤解があり、そこまで極端に慶喜公への評価を急に変えるわけもない。

司馬さんは私のことを倒幕派でなかったことにしたいのは、商売上手がゆえであろうが、私はとんでもない誤解を受ける羽目になった。

そもそも、この時点では大政奉還がなされることは、ほぼ予測されていたのだから、サプライズでもなかった。

後藤が状況をやや粉飾したからだが、予想以上に明快な結論だと感じたし、それ以上に、一仕事をなしとげたという充実感から慶喜公に対して、「ようやった」という気持ちもあったのは事実である。

だが、急に信頼に足る人物だと心酔するほど、過去の不信感を簡単にぬぐえるものではない。

慶喜公は翌14日には諸藩の代表を二条城大広間に集めて正式に「大政奉還」を発せられた。

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