日本では、西洋史・東洋史・日本史という三分野に歴史を分けて教えたり、理解したりすることが多い。このために、同時代に何が起きたかを理解していない人が多い。
歴史の専門家と言っても、だいたい、この三つのどれかの専門家であって、歴史全体の専門家などいない。
それではおかしいと私は思うので、分野をまたがった意思をいろいろ書いていて、最近、出した「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)もそうした試みだが、「最強の日本史100世界史に燦然と輝く日本の価値」(扶桑社文庫)は、日本史の通史だが、世界史との関連を常に意識している。
そのなかで、「信長・秀吉・家康と同世代の世界の有名人」という項目の一部を紹介しておこう。
信長・秀吉・家康という三英傑は、西洋で言えば、だいたい、スペインのフェリペ二世(在位1556~1598年)、フランスのアンリ四世(在位1589~1610年)、イギリスのエリザベス女王、オランダのオラニエ公ウィレム、ロシアのボリス・ゴドノフ(在位1598~1605年)といった王者と同世代です。ガリレオも同じ世代です。
インドではアクバル大帝(在位1556~1605年)の時代であり、オスマン帝国はレパントの海戦(1571年)に敗れて進撃を止められました。
フェリペ二世はポルトガル王も兼ねて(1580年)、最強の君主として君臨しました。この時代には、反宗教改革運動が隆盛し、イグナチウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルが設立したイエズス会がアジアへの布教に乗り出し、現地宗教との柔軟な融和で、成功をおさめました。
日本で一定の成功を収めたのも、一向宗や法華宗よりむしろ権力に対して融和的であり、珍しい南蛮の品物を贈るとか、仏教とよく似たものだという巧妙な説明をしたがゆえです。
しかし、宣教師のなかには、浅はかに仏教などの寺院や仏像を破壊したり、キリシタン大名の糾合を策してたりして、秀吉のキリスト教禁令の原因となった者もいました。また、奴隷貿易に関与したのも不信感を高めましたし、同性愛に対する激しい嫌悪をしめしたことはも、当時はその方面の先進地域だった日本ではマイナスでした。
スペインの本国でも、無敵艦隊がイギリスに負けたりして(1588年)、暗雲が立ちこめ、やがて、プロテスタントのオランダの独立と勃興で植民地や交易相手を取られていきました。江戸幕府による鎖国も、江戸幕府がオランダに騙されて、貿易独占権を与えたと言うことです。
明の時代は「北虜南倭」というように、北のモンゴル人と南からの倭寇に悩まされた時代です。そうしたなかで、積極的な対外政策を繰り広げたのは永楽帝ですが、財政的に無理がありました。そこで、万里の長城を強化したり、琉球に代表される従順な国を朝貢貿易のなかで有利に扱って状況の改善を図りましたが効果がありませんでした、納得を得ることができませんでした。
そして、南蛮船が姿を見せ始め、ついで、日本の豊臣秀吉の貿易要求を甘く見て高飛車に断ったところ、本当に攻めてきたので大慌てになりました。
そこで満州方面にあった部隊を朝鮮に遠征させて反撃し、膠着状態になったところで、秀吉が死んで窮地を脱したのですが、財政的は破綻し、手薄になった満州で女真族が力を蓄え、やがて、満州と名乗り、1634年にはヌルハチをついだホンタイジが,モンゴルから元朝の玉爾を手に入れ、満漢蒙の皇帝を名乗りました。
ついで、朝鮮に攻め入り、ソウル郊外の三田渡で、国王英祖に屈辱的な三跪九叩頭の礼をさせ屈服させました。そして、山海関を破って北京に入城し、清国を建国しました。
それに対して日本は明の残党の要請で紀州の徳川頼宣を総大将に介入することを検討しましたが、最後に井伊直孝の反対論が通って思いとどまりました。
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