韓国のハンギョレ新聞と言えば、日本の朝日新聞以上に左翼色をはっきりさせているメディアである。そのハンギョレ新聞の電子版にこんな見出しの記事が載っていた。
つまり、日本の前方後円墳にそっくりな古墳が発掘されたが、日本支配の証拠とされることを怖れて埋め戻したというのである。
「この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ」
「6世紀前半のものと推定される 驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった」
「墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は『九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった』と述べた」
「長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたのは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている」
このあたりは、継体天皇のときに大伴金村が百済に譲った任那四県にあたる。しかし、日本の歴史家は、韓国の国粋主義者の嫌がることは、史実であっても眼をつぶることにしているから、日本人のためにも詳しく解説してくれない。だから、私のような部外者がかわりにするしかない。
百済、任那の関係は『日本書紀』に詳細に書いていて謎なんぞ存在しないのである。そのあたりを、このほど刊行した『日本人のための日中韓興亡史 』(さくら舎)では、その背景も含めて詳しく書いてある。というよりは、日本人が正しく知っておくべき日中、日韓関係を知って欲しいからこそ書いた本である。
478年に中国南朝の宋王朝に使節を派遣した倭王武(雄略天皇)は、次のように述べている。
「私どもの国は遠いが皇帝の威光を尊重する国である」「昔からわが祖先は、みずから甲冑をつけて、山川を越え、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のほうの海を渡って、平らげること九十五国に及んだ」「代々、皇帝のもとに挨拶に参上してきたが、私も不束者ながら跡を継ぎ、百済を通り、使節を派遣した」「近年は高句麗が(ソウル付近まで)進出して暴虐を働くので、容易に南京まで使節を派遣できないことになって困っている」「父の済王(允恭天皇)は、高句麗が道を塞ぐのを憤り、百万の兵士を送ろうとしたが、父も兄(安康天皇)も急死し、私も喪が明けるまで兵を動かせなかった」とし、「もし皇帝の徳でこの高句麗を討ち平和になれば、引き続き皇帝への礼を尽くすであろう」 「開府儀同三司(三大臣クラス)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を自分で名乗っているが、これを追認いただきたい」というのが内容である。
大和朝廷は列島で東西同じくらいの地域を従えたとしている。つまり畿内発祥であるということで、九州王権の東遷が否定されている。また、半島南部を切り従えたとし、列島の東西と半島南部を対等に置き、いわば、東日本・西日本・北日本と位置づけている。
新羅は秦(辰)韓、百済は慕(馬)韓、任那は加羅(伽耶)の一部だが、これは横浜市を含む神奈川県を横浜市および神奈川県といっているようなもので別におかしくはない。それに対して、南朝は百済を外して認めている。これは、百済が南朝と直接の交流を持っていたためだろう。
もともと任那は、釜山の西にある金州にあった金官国のことだが、『日本書紀』では、日本支配地域全体を指す名称としても使っている。この使節は、375年に高句麗が百済の首都だった慰霊城(ソウル)を陥落させた直後の混乱期に派遣されている。高句麗は北魏に圧迫されたこともあり南下し、427年に国内城から平壌に遷都していたのである。
南朝は半島南部の日本支配は認めたが、高句麗排除のための積極行動は取らなかった。その結果、日本から南朝への使節派遣はその後はされず、宋もその翌年に斉に代わられた。
『日本書紀』によれば、雄略天皇は、国土を失った百済に忠清南道の熊津(公州)を賜ってそこで王国を再建することを支援した。そして、479年には日本で人質になっていた東城王を国王として送り込んだ。この東城王の末裔である百済永継は、藤原冬嗣の母であり、摂関家に百済王のDNAを伝えている。
その子の武寧王の墓からは、豪華な冠などが出土して話題になったが、棺は高野槙(悠仁親王のお印で日本特産)で作られていた。その子孫の高野新笠は桓武天皇の母親である。
百済は日本の支援のもとで、国力を回復していき、継体天皇の512年には、全羅道のいわゆる任那四県を日本から割譲された。栄山川の流域で、前方後円墳が多く発掘されていることで知られた地域である。また、領土の南への拡張を受けて、百済の聖明王は扶余へ遷都した。聖明王は日本に仏教を伝え、任那の回復にも尽力し、551年には高句麗からソウルを奪還したが、554年に新羅に横取りされ戦死した。
まだ、続きがあるが、これが8世紀の日本国家の公式見解だったし、それを新羅などが否定したこともない。
ひとつ憶えておいて欲しいのが、これら古墳群は、いわゆる任那四県。つまり、百済が五世紀後半にソウル付近を高句麗に奪われたので、日本から領土を割譲されるかたちで忠清南道の熊津(公州)付近で再建された後も、日本領(任那)として留まり、六世紀の継体天皇のときに百済に割譲された地域であり、日本領時代にこの古墳群はつくられたということが、今回の発掘でも裏付けられたということだ。
ある作家の歴史物には、これらの古墳が百済になってからの建造と誤解して、百済が日本の植民地でなかったかという指摘もあるが、そういうことではない。植民地でなく日本固有の領土だったころにつくられたと言うだけだ。
日本の半島支配は、ローマ帝国がパレスティナを支配していたのと同じくらい疑いない史実である。
ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授は、「民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」と記事の中でいっていることを韓国にも成熟した世代が生まれつつあるというなら嬉しいことだ。
百済についていえば、私は百済は私たちの重要な先祖のひとつだと思う。百済が滅亡して唐に併合された後、その遺民の多くは、日本にやってきた。百済の王族は満洲の扶余族であり、その血は皇室や摂関家にも流れているし、多民族国家だったから、倭人もいたし、土着の人もいたし、王仁博士、止利仏師、秦氏といった中国人もいた。それらをすべて併せると、百済の人々は我々日本人の先祖の何割かを占めていると思う。
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