中韓関係:王朝交替のたびに強まった中国への従属

日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)で描いている、中韓関係だが、本日は高麗から李氏朝鮮成立にかけての時代を眺めてみよう。

朝鮮半島史には、余り知られないが、後三国時代と呼ばれる時代がある。新羅が統一を失ったが存続し、後百済と後高句麗が独立した時代である。

朝鮮半島 Wikipediaより

甄萱という武将が後百済(900年)、弓裔が後高句麗を建てて(901年)た。やがて、弓裔の部下だった王建が彼に取って代わり高麗を建て、新羅を降伏させ(935年)、内紛につけ込んで後百済を滅ぼして統一に成功した。

弓裔は新羅王の庶子だから、高句麗の名を使ったのは便宜的なものだ。残虐な王で、諫めた王妃には、陰部に熱く熱した鉄の棒を突き刺し、口と鼻から煙が出るのを見て楽しんだと正史にも書かれている。そういうこともあったので、開城の名門豪族出身の王建が部下に推挙されて国王となった。

高麗の創始者である王建(太祖在位916-943)の生家は、松岳(開城)を拠点にしていた大商人である。康宝育が国祖とされ、その娘が中国人の商人と結ばれ王帝建を生み、王帝建と中国人女性の子が王建の父である王隆である。康氏の先祖は陝西省から来た漢族系の一家だが、高句麗の臣民だったこともあるともいう。

後百済は日本との交流や援助を盛んに求めてきたが、日本がこれを断った。高麗も972年に通交を申し入れてきたが、日本は拒否、1079年に、国王のために医師を派遣してくれという要請があったが、治療に失敗したら面子が立たないと断った。

中国に統一政権がなく動けなかったのだから、後百済の要請に応じても良かった。それに、高麗は日本との交流を希望し、丁重に申し込んできたのだ。その関係は、上下関係がそれなりに明確なものになったはずだったのだが、平安貴族は面倒がった。律令制の崩壊で、まっとうな常備軍もなかった事情もあった。

対外消極策は、さしあたっては平和をもたらす。しかし、その積み重ねが、半島に中国に従属的で、日本に敵対的なコリアン国家が存在する図式を定着させ、そのつけを日本はいまも払っている。日本が頼りないから半島の人々が中国に従う方が安全だと思うのも無理はない。

モンゴルが高麗へ侵入したのは、1231年のことで、高麗王室は、江華島に移り、国土と人民はモンゴルの収奪にまかせた。そののち、元に降伏したが、一部の舞台は「三別抄の乱」を起こし抵抗したが鎮圧された。

高麗が元に降伏したのち、フビライは日本を服従させる手伝いを高麗にさせた。日本との交渉は決裂し、蒙古と高麗の連合軍が日本を攻めた。高麗がモンゴルに抵抗したので元寇が遅くなったから感謝しろとかいう輩もいるが、結局、一緒に攻めてきたのみならず、忠烈王など積極的にフビライに日本侵攻を進言していたのだからふざけた話だ。

最近は元寇というのは誹謗だと、蒙古襲来といえとかいう愚か者もいるが、それより大事なのは高麗の関与であり、「元・高麗寇」と教科書でも書くべきものだ。

元の時代、高麗はほかの時代に比べて直接的な支配を受けた。その一方、高麗王家は元の皇女を王妃として迎え親戚づきあいだったし、世子は大都の宮廷で貴公子として生活できたわけで、新羅や李氏朝鮮よりよほど高かったのも事実である。今川義元の人質となり、義元の姪と結婚した徳川家康に似ている。

中国で洪武帝が元朝に対する反乱を起こしていたころ、高麗の宮廷は元と明の間で揺れた。元の時代、首都より北のほうは、元の直轄領になっていたので奪還を図り、高麗人が多く移住していた遼東地方(満州の遼寧省)にも食指を伸ばした。

さらに、1388年に明が鉄嶺以北(咸鏡道)の併合を通告してきたので、ウワング王は、新興軍人の李成桂に遼東遠征を命じた。ところが、李成桂は途中の威化島で「威化島回軍」という裏切りに踏み切ったのである。

「小国(高麗)が大国(明)を攻めるべきでない」というのが主眼で、「農繁期に軍を動かすべきでない」「倭寇の侵入を招く」などが口実だった。

李成桂は、国号を変えず高麗王として即位したが(1392年)、明から許されず、翌年になって、「朝鮮」を国号とした。朝鮮王国を創った李成桂(太祖)の家系は、全羅北道の全州李氏の一族で、新羅の高官が先祖だったとか、先祖は中国からやってきたともいろいろの文書があるが、よく分からない。だが、少なくとも四世代にわたり、モンゴルが支配していた女真族居住地の咸鏡道にいたのはたしかで、混血もしていそうだ。

高麗と李氏朝鮮という二代の王朝が、北方からやってきて混血もしていたわけで、新羅の時代と比べて明らかに違った支配層になっていたのは確かだ。

李氏朝鮮といわれるのは、古代の箕子朝鮮、衛氏朝鮮と区別するためだが、箕子朝鮮、衛氏朝鮮は漢民族の国家だから本来、関係ない。