今日に繋がる「高橋是清自伝」3つのエピソード

高橋是清自伝」(中公文庫)は是清が二・二六事件で82年の波乱に満ちた生涯を閉じた1936年の1月、衆議院議員を務める傍ら20余年にわたりその側近だった上塚司が編んだ、是清生誕(1854年)から第5回外債発行(1906年)に至るまでの半生記だ。

高橋是清 Wikipediaより

几帳面な是清は1900年頃から、それまでの日記や手帳、書簡などを子孫に伝えるべく整理し始めた。その後これらの清書を上塚に頼み、その原稿に是清が口述で修正を繰り返し、ノート30冊に及ぶ原稿は偶さか死の前月、1冊の自伝となった。

自伝には興味深いエピソードが満載だが、本稿では「今日に繋がる」ものとして、こじつけとの批判を承知の上、「皇位継承」と「養子」、「ラムザイヤー論文」と「奴隷」、「ディープステート」と「ユダヤ金融資本」の繋がりを見てみたい。

養子

先般の皇位継承有識者会議で参考人の櫻井よしこ氏は、男系男子の皇位継承を前提に、皇室の安定化には「養子縁組を可能にすることが最も現実的」と述べた。夫婦養子も含むこの論は明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏の持論。筆者も大賛成だ。

是清は、幕府同朋衆の絵師河村守房と河村家侍女北原きんの間に、江戸芝の母の寓居で生まれた。が、生後数日にして仙台藩足軽高橋是忠家に里子に出され、2年後に養子となって、芝の仙台藩下屋敷で養祖母喜代子の手により育てられた。

里子の間に菓子屋から養子話が来たが、町人にやるのを祖母が首肯せず、両家相談づくで里子を養子縁組した。是清が後年「或いは一生菓子屋で終わっていたかも知れぬ」と述懐するのは、足軽とはいえ仙台藩士であったことが後の人生に大きく影響したからだ。

是清は5~6歳の時に河村の子だと聞かされた。が、行き来のある守房は是清に実父としての態度を取らず、是清も「知りながら大きな家に行くという心持ばかり」だった。そういえば岸信夫防衛相も、安倍晋三の弟と知ったのはかなり長じてのことという。

皇室の話に戻れば、生後間もない幼児の養子が難しくとも、旧宮家男子の若い夫婦養子ならば、その幼児や将来生まれた子は紛れもない皇室の一員として成育する。是清の例を見るまでもないことだ。是非ともこの方向で皇室典範を改正して欲しい。

さて、是清が10歳にして「ドクトル・ヘボン」の夫人に英語を学び始めたのも、仙台藩士の端くれだったからだった(告白すれば、筆者がこのヘボン式ローマ字の考案者の名が「ヘップバーン(Hepburn)」と知ったのは、実はそう昔のことでない)。

ヘボン夫妻の帰国後、是清は英語習得のため横浜の英系銀行にボーイとして住み込む。ここで仕えた支配人が40年後、欧米での外債発行で是清を大いに助けたバース銀行ロンドン支店支配人アレキサンダー・シャンドだった。まさに奇跡の奇遇というべきか。

奴隷(年季奉公人)

洋行を切望する是清のことを、ボーイ仲間が米ヴァンリード商会にいた友人星某(後に榎本武揚配下)に話すと、星は勝小鹿(海舟の子)の渡米同行人として是清を、庄内藩高木と仙台藩富田に加えるよう推挙した。藩士の子がものをいった。

年少の是清(13歳)はサンフランシスコのヴァンリード両親宅で家事手伝いを始めた。ある日、ヴァンリードからオークランドに金持ちのブラウン夫婦がいるが行ってみるかと誘われ、奥さんが英語を教えてくれるというので承諾する。

ブラウン家でヴァンリードにいわれるまま書付にサインする。是清は、赤ん坊のお守や薪割り、牛馬の世話をした。やがて支那人コックと喧嘩になり、主人に暇を請うと、「お前の身は3年間、金を出して買ってある。書付にサインしたではないか」という。

が、程なくブラウン一家は父親の支那赴任に同行することになり、是清は税官吏の所に移ることとなった。が、一度同行しただけで知人の所に身を寄せて行かずにいたところ、「その後向うからも訪ねて来ず」税官吏とはそれ切りになった。

時は明治維新、富田と高木が帰国するというので是清は二人に事情を話し一緒に帰りたいといい、まずはヴァンリードから契約書を取り戻すべく対決する。が、発音不十分につきagreeをangryと受け取られるなど、意思疎通が上手くゆかない。

ヴァンリードは、契約書には3年間50ドルでブラウンに売ったことが書いてあるが、それは彼が是清の渡米費50ドルを負担したからだといい逃れする。そこで50ドルを支払い、「天下晴れて自由の身体になった」という次第。

まさに拙稿で述べた、1619年に西インド諸島から新大陸に来た20名の黒人や英国からの白人入植者の一部、そしてマグザイヤー論文が指摘した「慰安婦は売春婦」と同様に、是清も「年季契約奉公人(indenture servant)」だったという訳だ。

ユダヤ金融資本

外債募集は「随想録」(中公文庫)にも簡潔な記述がある。日露戦争勃発直後の1904年2月24日、是清は戦費調達のため横浜港を出発、ニューヨークで銀行を訪問した後、ロンドンでパース銀行ロンドン支店にシャンドを訪う。シャンドは是清のボーイ時代を一度も話題にしなかった。

シャンドに紹介された仲買商バンミュール・ゴールドン商会を介し、ドイツ系ユダヤ人のロスチャイルド家の末弟アルフレッド・ロスチャイルドや同じ出自の投資家アーネスト・カッセルと交誼を結ぶ。結果、目標1億円(1千万ポンド)の半額5百万ポンドをロスチャイルドが引き受ける。

かつて日本にもいた銀行家ジェローム・ヒルが発行を祝う晩餐会を開いてくれ、その席で米国クーンローブ商会のヤコブ・シフを紹介される。シフ家とロスチャイルド家はフランクフルトのゲットー(ユダヤ居住区)の続きの家屋で暮らした間柄だった。

シフが残り5百万ポンドをニューヨークで引き受け、1回目は英米での発行となった。2回目の2億6千万円(英米半々)でも、3回目の3億円(英米独が各1億)でもシフは米国分を引き受けた。4回目と5回目には英仏のロスチャイルドが絡んだ。

シフとの会話から是清が得た引受の真意こうだ。国外のユダヤ人有志は、帝政ロシアから虐待(ポグロム)されるユダヤ人への支援のみならず、ロシア政府の援助要請にも応じた。が、政府は喉元過ぎると虐待を繰り返し、ロスチャイルドも数10年前に関係を断った。

シフも、米国ユダヤ人会長として貧民救済に私財を惜しまず慈善する「正義の士」であったからロシア政府に憤慨し、日露開戦に思うところがあった。すなわち帝政から共和制まではないにしろ、戦争で「ロシア政治に一大変革が起きるに相違ない」と考えた。

それがロシアのユダヤ人を救うとすれば日本に勝たせたい、勝てなくとも戦争が長引けばロシア内部で政変が起きる。日本兵は訓練が行き届いて強いというから、軍費に行き詰まらなければそうなる可能性が高いとシフは考えた、と是清は自伝に綴る。

果たしてその通りになった。ロシア革命の背景に斯くユダヤ金融資本が存在した。なお、民間ベースで40年末から始まった日米交渉でドラウト神父を農林中金理事井川忠雄に紹介したのは、シフの没後クーンローブ商会を継いだストロースだったとメンバーの一人岩畔豪雄は記している。