筋萎縮性側索硬化症(ALS)で2月は銀行家フランシスコ・ルソンが亡くなった
フランシスコ・ルソン・ロペスが2月17日に亡くなった。73歳であった。彼がまだ闘病中にアゴラで触れたことがある。
前回の記事と重複するところもあるが読者にはご容赦いただきたい。
彼は1990年代の銀行界のスター的な存在であった。その後、筋萎縮性側索硬化症、一般にALSと呼ばれている病気に罹り、亡くなるまで6年間の闘病生活を続けた。その間に自らの私財を投じてフランシスコ・ルソン基金を創設した。それはALSの治療の為の研究開発とこの病気に罹り経済的に苦しんでいる人たちを支援活動をする為であった。
ルソンは2014年、ALSに罹っていると診断されたのは丁度銀行界から引退して2年目であった。サッカーの試合を観戦に行く途中で、彼の娘が父親の話ぶりに異常を感じたのが始まりであった。
最後に勤務していたサンタンデール銀行から退職金として6500万ユーロ(78億円)が支給された。資金面での余裕から3年間治す為に世界の名だたる病院を訪ね回った。しかし、現代の医学では治すことはできないと宣告された。
一般に発症してから3-4年で患者の大半が死亡している。それを超すと5年で亡くなる患者が80%、長く生きることができるとしても10年が限界だとされている。ところが、僅かにそれ以上の寿命を持つことができる場合もある。それが理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士の場合で、彼は途中病気の進行が弱まり50年余り生き延びた。
2月17日付『El País』で指摘されているように、この病気の患者の介護費や設備費そして会話ができる電子機器などをそろえて生活して行くには、年間で3万5000ユーロ(420万円)ほどが必要とされている。
同じく昨年12月1日付の同紙が、ALSの患者で元テレコミュニケーション技師だったホルヘ・ムリーリョが一般的な意見としてその維持費用は5万ユーロ(700万円)が必要で、その費用を賄える患者は6%しかいないと指摘した。
病気の進行とともに呼吸補助装置をつける必要が出て来るが、多くの人が安楽死が合法化されるようになることを望んでいると言われている。
フランシスコ・ルソン・ロペスはビスカヤ銀行に、24歳の時に入社した。37歳の時には同銀行のジェネラルマネジャーとなった。そのあとビスカヤ銀行はビルバオ銀行と対等合併をしてビルバオ・ビスカヤ銀行(BBV)となった。当時の金融界ではビルバオにあるイエズス会のデウスト大学卒が優遇されていた時代だった。ルソンはデウスト大卒ではなくBBVではアウトサイダー的な存在になっていた。
そのような時に社会労働党政権下で財務・経済大臣だったバスク出身のカルロス・ソルチャガが彼を公営のエクステリオル銀行の頭取に招聘した。彼に与えられた使命は中規模の銀行6行を合体させてアルヘンタリア銀行を創設させることであった。ルソンは見事その任務を果たしてアルヘンタリア銀行の頭取に就任した。
ところが、1996年に国民党が政権に就くと、当時のアズナール首相(イラク戦争にスペインを参戦させた首相)はルソンを辞任させてフランシスコ・ゴンサレスを頭取に任命した。
アルヘンタリア銀行を去るとサンタンデール銀行が彼を誘った。彼はラテンアメリカ市場の開拓に任命された。1999年から2012年の間にラテンアメリカ10カ国を股にかけ、特にブラジルでの金融市場を支配して行った。
アルゼンチン電子紙『La Política Online』(2月17日付)が彼と仕事を共にしたある人物の評価を掲載した。「彼は年間で半分以上をこちら(ラテンアメリカ)で生活していた。彼ほど異なった国のチームを同化させ、政治権力とも関係を築き、組織を一つにまとめることができる人物はいない。他の誰も彼の足元にも及ばなかった」と述べていた。
このようにしてルソンはサンタンデール銀行が挙げる収益の半分をラテンアメリカとの取引で稼いだのだった。
彼の14年余りの神経も磨り減る激しい勤務が彼の病気の要因になったのかもしれない。ルソンは2012年に辞任することを決めた。彼の功績を認めた銀行は退職金として日本円にして78億円を支給した。
退職してからは多数の企業のコンサルタントを務めた。アパレルZARAや南米のチリとブラジルの航空会社が合併してできたラタム航空の役員にもなった。また国立図書館の副館長にも就任した。しかし、それから20か月後にALSの兆候が出始めたのである。
スペイン電子紙『El Independiente』(2月17日付)に、「過去の友人の中で今も関係を保っているのは3人だけだ」とルソンは語った。その一方で「看護師、医師、科学者、基金の協力者やその他の人たちから感謝されている」と述べていた。ルソンはALSの治療に有益なあらゆる業界の人たちからの助言を仰いでいた。さらに、彼は全国でALSの患者を治療している医師同士のコミュニケーションを円滑にして、医師が経験したことや情報を共有できるようにした。
彼の功績の中で非常に重要なのは、ALSを患っている人たちの為にTALLKというアプリケーションを無償で提供できるようにしたことである。
これは韓国のサムスン社、スペインのアイリスボンド社、フランシスコ・ルソン基金の3者が協力したもので、目でタブレットの画面の文字を見ながらコミュニケーションが出来るアプリケーションである。
ルソンのALSの患者として寿命に限りがあるということを承知しての生きる哲学は「毎日、新しい日を迎えることが出来たと神様に感謝することである」とあるインタビューで答えたそうだ。更に「死については、一日に5分だけ考えることにしている。それを上回る時間はない」とも語っていたという。
彼の目標は、ALSを治すことやALSの患者を経済的に支援できるための資金集めに全力を尽くすことだった。そして自らの残された僅かの人生を最大限に愉しむことだった。
また先に触れたALSの患者で元テレコミュニケーション技師だったホルヘ・ムリーリョは『El País』のインタビューに答えるべく3544コの単語を目で画面のキーボードを追って作成して回答を準備したのであるが、それをするのに3日間を費やした。それは、五体満足な我々が如何に恵まれているかということを反省する材料になる。
3月はスポーツ記者カルロス・マタリャナスが亡くなった
同じく闘病生活を続けていたカルロス・マタリャナスが3月9日、亡くなった。39歳であった。サッカー選手のあとスポーツ記者として活躍し、筆者もしばしば参照させてもらっている電子紙『El Confidencial』でスポーツ欄を担当していた。2014年にALSに罹っていると診断されてから闘病生活を続けていた。
闘病生活の後半になると彼は良く「病気との試合で勝った」と良く言っていたそうだ。この病気になってから寿命は平均して3-4年と言われている中で、彼は7年生き延びることができたからだ。
彼の死を悼む同僚や他新聞の記者たちが別れの言葉を綴ったのが『El Confidencial』で掲載された。
その中で『El País』の記者アルバロ・リガルが書いている文章の中で「他人がしていることを軽率に批判する前に2度それを考えた上で批判しろ」と彼が言ったことを今も良く記憶していると述べている。
彼と同じく仕事仲間だった発行副責任者カルロス・サンチェスは「記者は綴る内容によって英雄にもなれる。リポーターは単に目撃者で終わってしまう」と指摘した上で、「彼は英雄であった」と評している。彼は元サッカー選手だったということもあり、自らの体験をもとにして記述しているから説得力があるということなのであろう。
彼は自らの闘病生活を綴った本の中で「時間が欲しい、お金ではない。修養したい、お金ではない。夢を見たい、お金ではない」と記述していることを同じデスク仲間のハビエル・ルビオが語っている。