蒙古史を知らずに中国を理解できない③:アルタンと豊臣秀吉

八幡 和郎

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「日中韓三国興亡史」(さくら舎)で論じたモンゴルの重要性について、エッセンスを5回連続で説くシリーズの第三回目(第一回はこちら。第二回はこちら)。

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前回は、チンギスハンの子孫である、ダヤン・ハーン(在位1479~1516)がモンゴルを統一したところまでを書いた。

モンゴル系図

その孫のアルタン・ハーン(生没1507~1582年)は、「トゥシェート・セチェン・ハーン」の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンの次席のハーンとなり、北京を包囲したり(庚戌の変、1550年)、山西省で20万人の虐殺をしたりしたので、明帝国から畏れられた。

1547年には、ボディ・アラグ・ハーンが死去し、後を継いだダライスン・ゴデン・ハーンは、アルタンを恐れて、興安嶺山脈の南東側に移ってアルタンの勢力はますます拡大した。

1552年からは、オイラートを圧迫してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にまで勢力を伸ばした。

一方、孫で明に投降した者もあり、その斡旋もあって、1571年に明との和平条約である隆慶封貢/隆慶和議が定められ、アルタンは順義王に封じられるとともに、多くの経済的特権を与えられる代わりに、明領内に略奪をすることは、やめることになった。

いってみれば、足利義満が倭寇を取り締まる代わりに、日本国王の称号を得て、勘合貿易をしたのに似たところもある。

また、それ以前から、アルタンは多くの漢人を傘下に入れていた。つまり、原因は拉致、亡命、平和的な移住など様々だが、漢人たちを領内に住ませて、現在内蒙古自治区の首都になっているフルホトなど多くの都市を建設させ農業や商業をやらせ、官僚などとしても使った。モンゴル人の漢文能力は低いので、漢人官僚が必要だったのだ。

こうした状態をもって、アルタンが明に屈服したというのは誤りである。それなら、英国王がアキテーヌ公の称号を得たり、フランス王が親政ローマ帝国内のミラノ大公やナポリ王の称号を得たら服従したことになるわけではない。

これを根拠に、現代中国ではモンゴルを中国の支配下に置いたような解釈をしているが、それは、中国側の天動説的解釈で、アルタンに明が屈したのが実情だったし、中国から一度でも冊封されたら中国の領土にされてはたまったものでない。

また、アルタンは従兄弟で、大興安嶺東側に移動したチャハル部のハーンの優越性は否定してなかったので、これをもって、内蒙古が明の一部になったということにはなりえない。

ある種の両属関係は珍しいことではないのである。また、アルタンはチベットのゲルク派と互いに権威を認め合い(親政ローマ帝国皇帝とローマ教皇の関係に似ている)、これがダライラマ制の始まりとなった。

これについても、中国はアルタンに始まるチベットのダライ・ラマとの関係を中華人民共和国は継承しているから、チベットは中国の一部だと云いたいようだが、無理がある。

このアルタンが1582年に死去した後の後継者は弱体で、モンゴルやその周辺では多くのハーンが乱立することになった。

その後のことは、このシリーズを一回延長して次回で紹介したいが、日本にとって大事なことのひとつは、文禄慶長の役についての、明側の対処方針のなかには、豊臣秀吉をアルタン・ハーンと似た立場においた理解をしていたということがあり、文禄慶長の役の理解のためにも大事なのである。

文禄の役の和議において、明が日本国王に任じようとして、秀吉の怒りを買ったという話がかつてあったが、それは、事実でない。

しかし、日本国王に秀吉がなったとしても、それは、アルタン・ハーンの場合でも層であったように、明にとって有利な条件での和平でもなんでもなかった。ただ、細目について思惑が一致しなかったから慶長の役になったのである。