百済は日本の植民地だったと『日本国紀』はいうが

日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)では、日本で統一国家が成立したころ、江南の地で栄えた六朝文化への憧憬から始めるとともに、同時代の南朝と百済と日本の三角関係を詳しく書いている。

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ここでは、その内容は、もし、同書を読んでいただけるならご覧いただくとして、別の拙著のなかから、百済についての文章を少し引用したい。

まずは、『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(パルス出版)から。

『日本国紀』は、どうしたわけか、百済について日本の植民地のようなものだったのでないかと大胆な推測をしている。たしかに、日本の強い影響下にあったことは事実である。しかし、『日本書紀』を見ても、百済は実にしたたかでずるい国として描かれており、従順な従属国ではなかったことがうかがえる。

そして、日本の植民地だったのでないかという根拠になっている全羅道地域での前方後円墳の存在だが、これは、主として512年に、任那の一部だったが百済に譲られたいわゆる「任那四県」の地域であり、古墳も百済領になる前のものである。

したがって、前方後円墳の存在は、任那四県が日本領だったことを示す証拠であって、百済が日本の植民地だった理由にはならないのであって、百田氏の勘違いである。

ついでは、『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで 』(PHP文庫)

百済は満州にあった扶余族が南下し、紀元前18年に高句麗の始祖・朱蒙の三子温祚によってソウル付近に建国したとされます(漢がおいた帯方郡がソウル付近を含む可能性もあります)。3世紀の段階でも馬韓をなす数十の群小国のひとつに過ぎず、国らしくなったのは4世紀になってからです。

日本が大陸に進出した4世紀中葉に近肖古王が出て、高句麗と対立しつつ、中国南朝と国交を持ったり、日本にも369年に石上神宮の国宝七支刀を献上しました。この王が実質的な建国者で、日本史での崇神天皇のような存在です。

高句麗とは対立し、故国原王を戦死させたこともあります。高句麗の好太王の碑には、百済や新羅はもともと高句麗に従っていたのに日本がやってきてこれらの国を臣従させたとありますし、日本に王子を人質に送り、王の死後には、この王子が日本の後押しで即位したりしています。

5世紀に入ると、高句麗は半島への圧力を強め、427年には満州の丸都から平壌に遷都しました。このなかで、新羅は高句麗の圧力に屈する場面も多かったのですが、百済は日本との友好関係を基本的には維持しました。

このころ、日本も「倭の五王」と俗称される王たちが中国南朝の宋と直接の国交を持ち、半島諸国への宗主権を認めるように要求しました。これに対して南朝は新羅や任那などについては認めましたが、百済については、南朝と直接の国交を持っていることからこれを認めず、雄略天皇が478年の使節を最後に断交したことは第・章で紹介したとおりです。

これと同じころ、百済は高句麗の攻撃を受け、475年にはソウルが陥落し滅びましたが、のちに忠清南道の熊津(公州)で復興しました。『日本書紀』によれば、熊津は雄略天皇から下賜された土地であり、東城王は人質になっていたものを日本が後押しで即位させ、武寧王(桓武天皇の母・高野新笠の祖先)は九州生まれ、また、済州島も日本から下賜したものとなっています。

その子の聖明王のもとで仏教文化が栄え、日本にも仏教を伝えました。また、日本の支配下にあった伽耶諸国(任那)の一部も譲られましたが、これが伽耶諸国の反発を買い、新羅による任那滅亡を招きました。351年にはソウルを高句麗から奪還しましたが、3年後には新羅に横取りされ戦死しました。

そののち、新羅に押され気味ながらも日本の後押しで生き延びました。義慈王は642年に長く敵対関係だった高句麗と和解し、日本・高句麗・百済同盟が成立しましたが、孤立した新羅は唐の年号や衣冠を全面的に受け入れるなど全面的な従属路線をとりつつ唐に新羅攻撃を要請しました。

唐は百済を攻撃し、660年、百済は滅びて王は長安に連れ去られ、領土は唐に併合されました。これに対し、残党が反乱を起こしたので、日本は滞日中だった王子豊璋を伴い派兵しましたが、663年に白村江の戦いで唐の水軍に敗れ、豊璋は高句麗に逃れましたが、その高句麗も668年唐に滅ぼされて併合されたので、長安に連れて行かれて流刑地で死にました。

そののち、新羅は唐が吐蕃と争っている隙に百済の旧領と高句麗南部を併合しました。このために新羅・唐関係は緊張し、新羅は日本の任那への潜在主権のようなものを認めたりしましたが、唐は渤海との対立で新羅に派兵を求め、百済・高句麗領の併合を追認しました。

ところで、日本は百済にお世話になったという人がいる。それは真実なのか。大きな構図としては、百済は独立した小国であり、日本の弟分と云うような関係だ。対等とはいえないが、植民地ではない。

日本は百済を支援し、いちどは領土を失った百済に、領土を割譲して再建させ、その後も、支援を続けた。それに対して、百済は中国南朝の文明を日本が輸入するにあたって総合商社的な貢献をした。また、その後も任那四県を割譲もした。

ただし、その交流が実りあるものだったのは事実だが、見返りも与えているのだから、一方的に感謝するいわれはない。

また、日本に文化を伝えてくれた帰化人は、ほぼ全員が漢族である。また、百済は唐に滅ぼされて、併合され、その故地を新羅がのちに併合しただけで、百済と韓国に国家としての継承性はない。

むしろ、百済からの大量の亡命者を日本は受け入れ、その亡命者(漢族も扶余族もいる)のDNAは日本人に色濃く受け継がれ、皇室にまで及んでいるのである。

そう言う意味では、古代百済人は現代の日本人と韓国人それぞれにとって主流ではないが、重要な先祖なのであって、もし日韓友好のシンボルだというとしても、そういうコンテキストでとらえられるべきものだ。