日本は鎖国したが中韓は鎖国しなかったのか?

鎖国というが、長崎貿易だけでなく、対馬を介した朝鮮通信使とか、琉球王国の明・清への進貢などの窓口があったから正確でないという人がいる。

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しかし、閉鎖性は極端で、貿易を最小限、日本人が海外に渡航することはほぼ全面禁止、外国人の渡来も極めて少数だった。洋書だけでなく西洋のことについて言及した漢籍まで厳しく輸入を制限した結果、知識においても世界の孤児になった。

こういう状態を鎖国でなかったとかいっても、なんの意味があるのか知らないが、そんなことで定説を覆したといって威張る人たちの気が知れない。

ところで、日本人が知らないのが、日本が鎖国していた時に、中国(明・清)や朝鮮はどうだったということである。しかし、ここのところを知らないと、近代史も理解できないので、『日本人のための日中韓興亡史』では、そこのところを詳しく解説した。以下、そのさわりである。

日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解!』(さくら舎)で詳しく書いたが、大航海時代の直接の動機はイベリア半島においてイスラム教徒を排除しようとしたレコンキスタの延長線上として、ポルトガルのエンリケ航海王子がアフリカ西海岸への進出に乗り出したことだ。応仁の乱の頃のことだ。

そして、1540年代に日本に到達した。大航海時代の幕開けは、日本には劇的な変化をもたらした。これによって、西洋だけでなく華南から東南アジアの文明がいっせいに日本に流れ込んだからだ。

それに比べると、中国や韓国では西洋文明の浸透は緩慢で、急速な経済社会の変化はなかった。日本では、粗銅を中国に輸出し、そこから金銀を抜き取った銅からつくった銅銭を輸入していたが、1591年に住友財閥の創始者の一人である蘇我理右衛門が南蛮人から技術を伝授されて粗銅から金銀をとり出せるようになり、日本の金銀が世界を席巻した。一方、明朝も李氏朝鮮も一応安定していたし、中国の工業技術の水準は日本よりかなり高かったから、西洋の技術の革新性がそれほど強く感じられなかったのだ。

鉄砲についても、日本では改良をし命中率も上げ、鉄砲を活用した戦術を生み出し、大量生産体制も構築した。その結果、文禄・慶長の役で圧倒的な戦力の差を見せつけ、そこで、中国でもそれを採り入れるようになった。文禄・慶長の役で日本が勝てなかったと誤解している人が多いが、のちに書くように、秀吉の死で引き揚げただけで、圧倒的な勝ち戦だったのである。

日本の鎖国後も清は日本よりはかなり緩やかな対外開放政策をとった。そのお陰でたとえば、絹織物や陶磁器、茶などを輸出し、その代金としてメキシコ銀を得て経済は飛躍的な発展を見た。新大陸由来の作物も導入され食糧事情は改善し人口も増加した。一方、農地が不足し、華僑が東南アジア方面に進出した。

イエズス会の宣教師などは、西洋の科学をもたらし、大砲を鋳造し、カスティリオーネ(郎世寧)は洋画や建築技法を伝えた。日本人は清朝というと低く見たがるが、それは、明治日本と清朝後期を比較した場合であって、清朝前期は康煕帝など名君が続いたこともあり、江戸幕府の退嬰ぶりとは比較にならなかった。

康熙帝のころの北京には、マテオ・リッチのようなイエズス会の宣教師たちが来て、孔子崇拝や先祖の祭祀を容認していた。ところが、ほかの修道会から異議が出て、教皇庁はイエズス会の布教方法を否定したので(1704年)、康煕帝は、イエズス会以外の宣教師の入国と伝道を禁止し(1706年)、雍正帝の1724年にはキリスト教の布教が全面的に禁止された。

貿易は、明朝では原則禁止する「海禁政策」がとられていたが、清朝では、鄭成功の台湾での反乱などをおさめたあとは、遷界令(住民を海岸部から内陸に移住させる命令)も、解除され、1685年には、上海、寧波、厦門、広州の四ヶ所を開放した。

生糸・陶磁器・茶などが輸出され、銀が流入し経済が発展したのである。ところが、乾隆帝の一七五七年に広州だけとなり、外国人の活動も厳しく制限され、上納金も徴収された。

このことで、西洋の新しい動きがつかめなくなり、軍事力などで大きな差がつき、その結果、アヘン戦争から蟻地獄へ落ちていった。

朝鮮はほとんど独自には西洋人との接触はなかった。文禄・慶長の役のときに宣教師が日本軍と一緒についてきたとか、17世紀に漂着者がいたくらいだ。

むしろ、朝鮮における西洋の文物の知識は、毎年、北京に派遣されていた朝貢使が北京在住の宣教師たちから得た。ただ、18世紀終わりからは、キリスト教の浸透を怖れて、かえって、西洋文明の受容は低調になった。

そして、19世紀の後半になって、異国船の渡来や、西洋文明を日清からの圧力を受けることになったが、それでも目覚めず、日本、清、ロシアなどを相手に支離滅裂な外交を展開して自滅した。