沖縄を中国に横取りさせなかった先人の戦い(戦後②)

長い歴史のなかにあって、中国の魔の手が伸びたことはある。そのあたりの長い歴史は、「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)のテーマでもあるが、昨日の第二次世界大戦終戦からサンフランシスコ講和条約までの動きに続いてその後の経過を追う。

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沖縄県の本土復帰は1972年のことだ。初代の知事になったのは沖縄県の教員組合を率いて復帰運動を展開した屋良朝苗である。屋良はその3年半前に行われた初の主席公選で勝利して琉球政府主席をつとめていた。自民党で沖縄問題について最大の実力者だった山中貞則が台北師範で教え子だったこともあって、自民党からも信頼された大政治家だった。

初の主席公選では、復帰運動の象徴的な存在で広島高等師範出の屋良朝苗(1972~76)が当選した。そのときの対立候補は、旧制水戸高校から東京帝国大学法学部で学び、那覇市長をつとめた西銘順治である。

西銘は沖縄が自分たちだけでやっていこうというなら貧困を我慢せざるを得ないと、「いも裸足」論を展開し、中央直結での現実的な方針を主張しましたが、反戦と早期復帰を唱える屋良の勢いの前に三万票差で敗北した。西銘が屋良の教え子であったことで恩師と争うのかと批判されたことも痛いところだった。

このころの本土復帰問題の状況をみると、保守系では、いずれは返還すべきだと考えるにせよ早期の返還には経済上の理由から躊躇する人も多かったなかで、沖縄県の教職員組合がもっとも熱心に無条件の復帰を運動し、日の丸掲揚運動を展開していた。

北京政府は、米軍基地撤去への期待もあり、日本復帰運動を支持していた。それに対して、台湾の国民政府は日本への返還に際しては、相談して欲しいという立場をとり、独立運動への支援を行ったこともあった。

本土の保守系の人は沖縄の教職員組合など革新系の人々や北京の中国政府を批判するが、沖縄の本土復帰を誰よりも真摯に追求したのが革新系の人々であり、日本への帰属を妨害した蒋介石に対し、毛沢東がそれを支持してくれた恩義は、そのかくれた意図がなんであれ、忘れるべきではない。

そして、1964年に佐藤栄作が首相に就任するが、その翌年に沖縄を訪問して、「沖縄返還なくして戦後は終わらない」と声明した。

佐藤栄作首相は、交渉に国民政府が異議を唱えないように、1967年に訪台して蒋介石総統に仁義を切った。「アメリカの基地を維持することが台湾にとっていちばん大事なのではないか」ということを説明し、基地維持を条件に返還に異議を唱えないことを求めた。蒋介石は、了解はしなかったが、米軍基地が存続するのであればと黙認することにした。

佐藤首相が、北京政府承認に慎重だったのは、このときの、経緯を恩義だと感じたのかもしれない。

ただし、その後も、「中華民国」は、わざわざ、沖縄でなく「琉球」と呼んだりしており、日本の領土であることは認めていなかった。つまり、沖縄の最終的な法的地位の確定には、国民政府の了解が必要だという立場は変えたわけではなかったのだ。

現在はどうかというと、少なくとも積極的には、沖縄は日本ではないというのは避けているようだ。

中国のほうはどうかというと、沖縄は日本であるという、沖縄返還運動当時の主張を破棄したとは言ってはいない。ただ、一部の報道機関などが、日本に取られたとかおかしな主張をすることはある。

いずれにせよ、台湾であれ、中国であれ、ひとつ間違うと沖縄の問題を蒸し返しかねない可能性はないわけでないという緊張感をもつことも必要だ。

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