理想の上司は信長・秀吉・家康のうち誰だろうか

令和太閤記「寧々の戦国日記」』という連載をネット連載小説のかたちで始めるという話は、すでに書いたが、その第一回はすでに掲載されている。ウッケツハルコさんのイラストも大好評だ。

クリックするとリンク先にとびます

『信長でも家康でもなく「秀吉」こそ令和日本が求めるリーダーだ!』というのが、ひとつのテーマなのだが、今回のアゴラの記事では、「理想の上司は信長・秀吉・家康のうち誰だろうか」という話を考察してみる。

近頃、現代的な基準で、歴史上の人物を批判するのが好きな人がいるが、意味のある話とは思えない。むしろ彼らが現代のサラリーマンの上司だったら、どういうようにやっていたかを考えた方が建設的だ。

秀吉が酷い上司だったと云うときに、必ず引き合いに出されるのが、千利休の切腹である。

豊後から大坂城にやってきた大友宗麟は、大和大納言秀長(堺屋太一の「豊臣秀長」は菅義偉首相の愛読書だ)から、「公儀のことは私に、内々のことは千利休に相談すると良い」とアドバイスされたという。その千利休がどうして切腹させられる羽目になったかは謎だが、こんなことだと思う。

利休はあまりにも実力者になってしまったし慢心から来る隙もあった。そして、豊臣秀長の死で庇護者を失ったことで各方面の不満も表面化していたので、秀吉は利休にいったん身をひかせた方が良いと思い謹慎させた。

だが、利休は前田利家が北政所を通じて詫びを入れろと勧めても、「女に哀れみを請うのはいやだ」などと意固地になって聞き入れず、そのまま切腹まで行ってしまったのだろう。

小田原の陣のころ北条家に仕えていたものの利休の仲介で秀吉に面会を許された山上宗二が、無礼な言動を吐いて打ち首にされた事件のショックもあったかもしれない。娘を側室に出せといわれて断ったのが原因などという今東光の「お吟さま」やその映画化で扱われた逸話は、取るに足らない。

たしかに、この利休事件は秀吉流の人心掌握術の危うさも象徴している。秀吉は部下を気前よく出世させたりするが、そんなことばかりやっているとポストも足りなくなるし、評判の悪い部下を庇護することで自分の評価も下がってしまう。そこで、ときにちょっとした失敗を口実にかなり厳しい処分をして追放したりするのである。

しかし、謝ってしばらく謹慎して態度がよいとやがて許して、それなりに取り立ててくれる。いってみれば、上げたり下げたりしながら部下を掌握するタイプだ。だが、そういいう世界に嫌気がさすと千利休のような悲劇が起きる。

織田信長はどうかといえば、ある日突然にクビかもしれないが、とりあえず、一緒に仕事を楽しくやれるボスだ。若いころから家臣や庶民もいっしょに踊ったりするのが好きだった。滋賀県の近江八幡市に、左義長という祭りがあって男性も女装などして踊るのだが、これは安土城下で信長自身が参加して始まったものだ。ちょうど、ホリエモンが逮捕される前に社員と忘年会で大騒ぎしている映像がよく流れていたが、まさにあれである。

「信長の消えた家臣たち」などという本もあるが、だいたいは、クビになれば田舎に帰る。それなりに蓄えもできているだろうし、楽しい思いもしたからそこそこさわやかな気分だっただろうと思う。

ただ、晩年には柴田勝家と並ぶ老臣だった佐久間信盛が追放され、高野山に上がったがそこも追い出されて熊野で貧窮のうちに死ぬ事件もあった。こうなると、明日は我が身かと家臣たちに不安が出てくる。それが、明智光秀の謀反原因だったかもしれない。

德川家康に仕えることは、何も面白いことはないが、ひたすら忠勤を励めば間違いなくそれなりに良いことはある。

信長や秀吉に比べて、家康に仕えた家臣たちに与えた禄高はかなり低い。譜代大名で最高は彦根藩井伊家の35万石(関ヶ原直後は18万石)だが、井伊家は遠江の名族で三河武士ではなく別格で、ほかでは、時代によっても違うが15万石あたりが限度だ。

そのかわり手厚かったのが、戦死者の遺族への待遇だ。関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城で勝ち目のない戦をあえてして時間を稼ぎ討ち死にした鳥居元忠の遺族の抜擢などその典型だ。

家康のころの奉行やのちの老中たちも小大名ばかりだ。外様だけでなく、德川一族も石高が多いと権力からは遠ざけられた。溜まりの間詰めの彦根とか会津といった中大名が辛うじて相談役的に扱われ、とくに井伊の殿様は溜まりの間代表でなんどか大老になった。

といっても、名誉会長的な位置づけを出ることはなかったが、幕末の井伊直弼だけは何を勘違いしたか本当に代表取締役会長のように振る舞ったので混乱が起こり、桜田門外で殺されてしまった。

老中であろうが奉行であろうが、お役目をもらってもほとんど加増はなかったが、そのかわり賄賂や細かい役得を得ることには寛容だった。給料は上げないが自力救済しろという趣旨だ。これは、見事に近代の大企業に受け継がれた。

日本的な経営の典型といわれるトヨタが三河にあるのは偶然ではない。日本の大企業では、工場労働者から社長までの給与格差が小さい。大卒総合職同士なら50歳くらいならほとんど給与は変わらない。そのかわりいいコースに乗ると交際費を使ったり、中元歳暮がたくさんもらえたり、あるいは親戚の子を採用させられるなど役得が多くなる。これはまさに三河出身の德川譜代大名に仕えるサラリーマン武士の世界そのものだ。

結局のところ信長、秀吉、家康の誰がよい上司かは、好き好きというしかない。

(本稿は拙著「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 SB新書 の内容を一部使用しています)