本当は渋沢栄一に感謝されていた平岡円四郎

大河ドラマ「青天を衝け」、毎週楽しく興味深く拝見しています。近年の大河ドラマでここまで「良い」と感じた大河は久しぶりです。自分としては、2000年(葵徳川三代)や2001年(北条時宗)の大河ドラマ以来かもしれません。

青天を衝け 公式Twitterより

さて、「青天を衝け」では、5月30日放送の「恩人暗殺」で、主人公・渋沢栄一を引き立てた一橋家家臣の平岡円四郎が、京都において水戸藩士のために殺害されました(元治元年=1864年6月16日)。平岡を襲撃したのは、林忠五郎・江幡貞七郎という2人の水戸藩士。

一橋家家老の渡辺甲斐守を川村恵十郎と訪ねた夜の帰り道に、平岡は、暴徒に右の肩先より左の肋に切り下げられて即死。恵十郎は傷を負いながらも、暴徒と奮戦、ついに暴徒を倒したと伝わります。一橋慶喜が攘夷の方向に向かわないのは、平岡のせいだと恨まれて襲撃されたのです。

さて、栄一は平岡をどのように見ていたか、想っていたかという話ですが、人によっては「残念ながら、当の渋沢栄一は平岡円四郎に感謝するとか、誉めるとかまったくしてなかったのです」という意見もあります(八幡和郎「本当は渋沢栄一に感謝されてなかった平岡円四郎」『アゴラ』2021.6.12)。

その論拠として、八幡氏は栄一の談話集『実験論語処世談』の記述を挙げます。その中で、栄一は円四郎について「一を聞いて十を知ることができる数少ない人だった」と述べつつも 「一を聞いて十を知るというのも、学問なら格別だが、一概に結構な性分とは言えない。(中略)こういう性格の人は自然と他人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものだ。平岡が水戸浪士に暗殺されてしまったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせ、あまりに他人の先回りばかりした結果ではなかろうか」「平岡が非凡の才識を有していたのは間違いないが、人を鑑別する鑑識眼は乏しかった」と述べているのです。

しかし、これらの記述をもってして、栄一が平岡に 感謝していなかったととるのは如何なものでしょうか。先ず何より栄一の談話録『雨夜譚』において栄一は平岡のことを「一橋家へ仕官するについては別して懇切の世話になり、杖とも柱とも頼んでいる人」と評しています。

そして、「御口授青淵先生諸伝記正誤控」においては、平岡の人となりを「平岡は磊落豪放な人で、単に俗務の出来るといふ計りではなく、大人物の趣があつた。私を薩摩へ使にやる時なぞ『ひよつとすると、やられるかも知れないよ。』などと戯言に云はれる。私は『やられてもいゝぢやありませんかお国の為にならうと思つて働いてゐるのにやられた所がそれは本望といふものです。』と云ふと『それそれ、その気象が好きなんだ』と云つてね。予々殺される位の事は覚悟してゐられたやうであつた。『人間一遍死ねば二度とは死なん』などと云つてね」と、豪放磊落、大人物と述べています。

これらは明らかに、栄一は平岡を高評価している証拠でしょう。『実験論語処世談』の栄一の平岡評価は、平岡に対する悪口ではないと私は思います。完璧な人間などいないので、平岡にも欠点はあったと栄一は見ていた。そのことを正直に話したまでだと思うのです。

しかし、平岡にも長所があったことを栄一はしっかりと主張しています。『実験論語処世談』と『雨夜譚』「御口授青淵先生諸伝記正誤控」の記述は、栄一なりに平岡の良い点、悪い点を客観的に評した結果でありましょう。

よって、八幡氏の「感謝するとか、誉めるとかまったくしてなかった」というのは、明らかにオーバーであり、かつ誤りだと私は思います。「一橋家へ仕官するについては別して懇切の世話になり」という栄一の言葉を見ただけでも、栄一が平岡に感謝していたことが見て取れるでしょう。