これでいいのか日本の医療! 最終回

2014年の6月21日にこのブログを書き始めて7年間が経過した。7年間に950回投稿し、560万回を超えるアクセスをいただいた。平均年間80万回以上のアクセスをしていただき、私の駄文に目を通していただいたことには感謝の一言しかない。

1年数ヶ月、コロナ感染症対策に苦言を呈してきたが、最近の動きは、日本は破滅に向かって一直線の感がある。政治家から、言葉の重みと責任が消え、まるで漂流国家のようだ。「勝負の3週間」「短期・集中で」という言葉がシャボン玉のように軽く、消滅していく。何を質問されても、「責任を取る」姿勢が皆無に映る。質問とかみ合わない回答を繰り返して、日本という国のいい加減さをさらけ出しても支持率が30%を切らないのは不思議だ。この理由は、野党に対する信頼感の低さの裏返しだ。総選挙になっても期待する候補がいない人が多くなるかもしれない。

国に明確な戦略・ビジョンがなく、目の前の課題に小手先の戦術で対応して、失敗しても口先の言い訳ばかりが続いている。デジタル化の遅れというが、この課題は、私が2011年に内閣官房参与となり、内閣官房の医療イノベーション推進室長として、日本の医療の課題として取り上げたものの一つだ。当時の課題は何も解決されていない。

昨日、ある会合で、私がシカゴに行ったのになぜ日本に戻ってきたのかと、ストレートな質問があった。いくつかの理由はあるが、最大の理由は、私たちが開発した薬剤の治験を受けるために、わざわざシカゴ大学に来られた患者さんとその娘さんが、結局、登録基準を満たさなかったので、日本に帰らざるを得なかった出来事だ。私のオフィスでせっかく来ていただいたが治験を受けることができないことを告げ、玄関で見送った。シカゴを訪れ、マンションまで借りていたのに、その患者さんが夢かなわず、タクシーに乗り込む姿を見て、涙が止まらなかった。患者さんにとっては、「希望」が「絶望」に変わった瞬間だった。今考えても心が痛む(「希望」が「絶望」に変わった瞬間、というタイトルのブログを検索して読んでいただければ幸いです)

滑膜肉腫の抗体療法の治験をフランスのリヨンで始めた後、高校生の患者さんのお父様から、日本人の研究者が作り、日本の会社が行っている治験薬をどうして日本の患者が受けられないのかという、やり場のない胸の痛むメールをいただいたこともあった。フランス政府の支援で行っている治験なので、参加できるのはフランスの人に限られていることを知らなかった私の責任だ。ただただ、悲しかった。

日本のためにと思って頑張ってきたが、民主党政権に絶望し、日本を捨ててしまった。しかし、シカゴにいても、患者さんの私に対する期待は絶えることはなかった。今さら日本に戻ってもとどうなるのかという思いと、日本人の血が流れているのだから日本の患者さんのためにという思いが交錯して数年間苦悩したが、2018年に後者を選んだ。後悔がないといえば噓になるが、日本のがん医療を変えたいという思いは募る。

それから3年、今の状況を考えると、日本に帰ってきたことが正解だったという答えは導き出せない。コロナ感染流行の影響もあるが、思い描いていたことができないままにコロナ禍の1年半が過ぎた。そして、私のがん研究所の任期もあと1年6か月だ。この10年あまり、私の頭の中で考えていたことが、手足に伝わらないようなことがたくさんあった。念ずれば気持ちは伝わるというが、根幹となる哲学・理念が全く異なる人たちに対しては、何も伝わらないことを再三再四体験した。自分のやりたいことは、自分で実行するしか道はない。

がん患者さんに希望を提供するだけで、私の人生を終わりたくない。希望をなくした患者さんや家族に、心の底からの笑顔を取り戻す姿を見てから、自分の人生を終わりたい。そのためにできることを、自分の力の限り、振り絞って頑張るしかない。7年間を一区切りとして、ブログに費やす時間を、目の前の患者さんに費やす形に変えて新しいことに挑戦していきたい、そして、自分の生き様を書き残していきたい。

長い間、ご愛読していただいた読者の方々には心からお礼を申し上げます。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2021年6月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。