木下藤吉郎と寧々の結婚

戦国という時代を、思う存分に夢を見ながら生きた秀吉夫婦と、それをとりまく人たちを「北政所寧々の回想」というかたちで、秀吉の生涯とその時代を等身大で描く『寧々の戦国日記』をNewsCrunch というネット・メディアで連載しています。「浅井三姉妹」「井伊直虎」「篤姫」に続いて、私の妻の衣代と共同執筆で、令和日本が求めるリーダー・秀吉と寧々の一生を歴史学の最新研究成果と、政治外交史の専門家としての私の解釈と衣代の女性史についてのセンスで展開しています。さらに新進気鋭のイラストレーター・ウッケツハルコが華を添え、若い女性編集者たちが編集に加わってお届けします。ここ二か月本能寺の変の前後を題材にしてましたが、今月は二人の結婚、さらに、それに先立つ秀吉の出自と少年時代を扱っています。

今回は、第八回『秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密』、第九回『 貧しい出自を誇り母を大事にした秀吉が隠した“父親の影”』をまとめて短縮版にしてアゴラの皆さんに提供します。連載全体のリンクは下記から入って下さい。

令和太閤記「寧々の戦国日記」

私(寧々)が藤吉郎と結婚したのは、永禄4年(1561年)8月のことでございました。桶狭間の戦いの翌年で清洲の御城下でのことです。数えで14歳でした。当時としては普通の結婚年齢でよろしいかと存じます。

大名同士では子ども同士で祝言を挙げて、実際の夫婦の関係になるのは、ずっとあとということもございましたが、有名な武将の奥方が初めてお子を産まれた年齢をみてまいりますと、15から16歳くらいから多くなっております。ですから、14歳での結婚は普通のことだったと分かって頂けるかとと存じます。

藤吉郎と初めて出会ったのは、妹のやや(良々)が養女にいっていた浅野長勝の家でのことでございます。のちに豊臣政権で五奉行の一人をつとめ、広島藩浅野家の祖となる長政の父親で、その長勝夫人の姉が私たちの母である朝日なのです。

浅野家に同僚が集まって酒宴をしているときに、桶狭間の戦いの少し前から織田家に仕え、なかなか役に立つ若者だというので、組頭に取り立てられたばかりの藤吉郎がそこにいたのでございます。

信長さまの父上である信秀さまは、守護代だった織田大和守家の家老でいらっしゃいましたが、主君をしのぐ尾張第一の実力者になっておられました。

ところが、42歳で亡くなられたので、信長さまが跡を継がれると、有力者たちはいうことを聞かなくなりました。

しかし、信長さまは巧みに一族の有力者をねじ伏せて尾張を完全統一する勢いでしたので、その前に叩いておこうと今川義元さまが攻めてこられたので起きたのが、あの「桶狭間の戦い」でございました。

このとき、信長さまは文句ばかり多いがいう通りに動かない土豪たちなどを頼りにせずに、流れ者であろうが農民出身であろうが役に立つ若者を集められました。それを、親衛隊として機動力がある軍団に育て上げ、勝利を手にされましたが、そのなかに藤吉郎もいたというわけでございます。

こんな変化の時代でしたから、普請も盛んですし、新しく雇われた者たちの統率も必要でございましたから、藤吉郎のような頭が柔らかく機敏な新参者にもチャンスが巡ってきていたのです。

藤吉郎は、小柄で身のこなしが軽く、黒くて小さな顔に頬骨と顎がとがり、ぎらぎらした小さな瞳は目立ち、どうみてもハンサムではありませんが、どことなく愛嬌はございました。声は大きくよく通り、台所にやってきては軽妙な話ぷりで女たちを笑わせておりました。

買い物などで出かけたときに会うと、荷物をもってくれたり、ともかくまめな人でした。愛情あふれる人であるのは、のちに天下人になっても変わらなかった美点でございます。

そのころ、母の朝日は、年頃になった自慢の娘だった私に良縁を求めて動き出しておりました。しかし、それを聞いた藤吉郎は、猛然と!得意の「調略」を始めたのでございました。母の朝日は、出自もよく分からない藤吉郎との結婚など承知するはずがありません。父の杉原家利は、大人しくて何事も母の意向に逆らえるような人でありません。

そこで、藤吉郎は義理の叔父の浅野長勝に的を絞って攻勢をかけました。そのころ、藤吉郎は信長さまのお気に入りで、少し頭角を現し始めておりましたから、長勝も藤吉郎は有望株だから悪い話でもないと思ってくれたようでございます。

仲人は信長公の母方の従兄弟である名古屋因幡守さまがつとめてくださいました。美男として知られ、出雲の阿国の恋人などという伝説がある名古屋三郎は、因幡守さまの息子らしいとか私の侍女たちが噂していたような気もいたします。

ところで、木下藤吉郎が名乗っていた木下姓ですが、藤吉郎のいうこともよく変わるので当てにはなりませんが、少なくとも私が最初にあったときには、そう名乗っておりました。

なんでも、織田家に仕官する前にお仕えしていた松下加兵衛さまからいただいたもので、松下に因んで名付けられたものだとかいっておりました。しかし、ときには、自分の父親が「木下弥右衛門」だったともいってたので、よくわかりません。

私は信長さまに仕官するときに、松下さまに似せて勝手に名乗ったのでないかと想像しております。人によっては、私の父が木下を名乗っていた時期があり、藤吉郎が婿入りして名乗るようになったとか仰いますが、私が結婚したのは、信長さまに藤吉郎が仕官して何年かたったあとで、すでに組頭とかいったお役目ももらってからでございますから、名字なしではありませんでした。

* 寧々の実父の杉原家利が一時、木下祐久という信長の奉行として活躍した人物で、そこへ藤吉郎が入り婿のかたちで次いだという説がある。しかし家利と木下祐久が同一人物であることを確実と言えるような材料はないので、ここでは採用しなかった。