尾張中村郷で生まれた藤吉郎

昨日は、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(NewsCrunch連載) 『秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密』を紹介しましたが、今回は、第九回『 貧しい出自を誇り母を大事にした秀吉が隠した“父親の影”』の短縮版をお楽しみ下さい。

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令和太閤記「寧々の戦国日記」

木下藤吉郎の父親は、信長さまの父上でおられる信秀さまの鉄砲足軽だった木下弥右衛門ということになっております。この話は、土屋知貞という江戸時代の旗本が藤吉郎の出身地である尾張国中村の代官・稲熊助右衛門の娘から聞いた話を書いた『太閤素性記』という資料に記されていることでございます。

細かい部分はあてになりませんが、ほかに藤吉郎の故郷の人から直接に聞いた資料はありませんので、いちばん信用できる証言でございましょう。

ただし、たとえば、鉄砲足軽というのは、鉄砲伝来の時期からいってありえないことでございますし、木下が名字だというのも、のちに藤吉郎が木下を名乗ったことから混同したのだと思います。

しかし、本当のところは、私もよく分からないのでございます。なにしろ、秀吉も義母の「なか(大政所)」も秀吉の父親である弥右衛門の話になると口を濁しますので、あまり詳しく聞けなかったのでございます。

たしかな話は、秀吉も義母も、弥右衛門の供養をしようなどと云ったことはありませんし、墓がどこにあるかも聞いたことすらございません。弥右衛門の親戚がいるわけでもありません。二人ともあまり良い感情は弥右衛門にもっていなかったのは確かなことでございましょう。

秀吉が尾張国愛知郡中村郷、つまり、現在の名古屋駅の南側あたりに拡がる中村区というところの出身だったことはたしかです。

小田原遠征の途中に小早川隆景さまや加藤清正を現地に案内し、年貢の免除も決めておりますから、間違いのないことでございます。その場所には、清正が創建した日蓮宗太閤山常泉寺というお寺がいまもございます。

もっとも、正確な場所としては、豊国神社のあたり、もっと南の「弥助屋敷跡」も含めた三か所の候補があるらしいのですが、小田原遠征には茶々(淀殿)が付いて行き、私はなかと一緒に聚楽第で留守番をしておりましたので、よく分かりません。

弥右衛門は農民でしたが、武士になろうとして戦場に出て怪我をしたこともあったようでございます。農民も自衛のために武器を持っておりましたから、正式に足軽などにならずとも、傭兵として雇われたり、落ち武者狩りをすることもあります。つまり武士と農民のはっきりした境界はなかったのでございます。

弥右衛門は夢が忘れられずに、また、お手当欲しさに武器をもってでかけ、しばらく家に帰ってこないこともあったといいます。そして、いつしか本当に帰ってこなくなり、風の便りに死んだという知らせがあったようでございます。別のところの女性のところに転がり込んでいた、というようなことかもしれません。

なかもだらしない夫に愛想を尽かし、茶坊主として織田家に仕えていたこともある竹阿弥という男と一緒に暮らすようになり、そして生まれたのが大和大納言となる秀長と徳川家康さまの奥方となる旭でございます。

そのあたりの事情は、私もあまり問い詰めるわけにもいかなかったのですが、秀吉や姉で秀次の母親であるともと、秀長や旭はあまり似ておりませんから、父親が違うというのは間違いないと思うのでございます。

なかにはほかに子どもがいたのではないかという人もおります。秀吉が出世すると、弟だとか妹だとかいう人が出てきました。それは、当時の武将たちでもお公家さんでも金持ちの商人の家庭でもよくあったことでございます。

農村でも、色んな事情で心ならずも妊娠するはめになったりすると、里子に出すのが普通でございました。誰の子でもいいから欲しい農家はいくらでもあったのです。取り戻すかもしれないという前提で里子に出すこともございます。たとえば、武家の場合だと、お手つきの女性につくらせた子を里子に出したけれども、正妻に跡継ぎが生まれなかったから戻すということもございます。

しかし、普通は里子に出しっぱなしで、行方も分からないことが多かったのでございます。なかについては、私にも本当のところは分かりません。ただ、間違いなく弟らしいのが名乗り出たとしたなら、親戚が少ない秀吉は取り立てたのではないでしょうか。

一方、なかには、妹が何人かいました。いちばん上は、岸和田城主になった小出秀政の奥方です。幕末の丹波園部藩主のご先祖でございます。関ケ原の戦いの前に福井城主だった青木秀以の母や、福島正則の母も妹ですし、加藤清正の母は従姉妹でございます。

藤吉郎は、関白になるころ、なかの父は「萩の中納言」だが、政争に巻き込まれて尾張に逃れたが、なかは京へ上って宮仕えをして藤吉郎を孕んだのだといったり、天下統一後には、日輪がなかの胎内に入って生まれたとか、日吉権現の生まれ替わりともいい出しました。

御落胤伝説というのは、この時代、珍しくはございませんでした。薩摩の島津さまの初代は、秦の始皇帝の子孫と称する古代豪族秦氏の末裔で、平安時代の終わりごろに貧乏公家だった惟宗朝臣忠久です。

母方の祖母が頼朝の乳母だったので武士となったのですが、室町時代になって子孫が頼朝の御落胤だったといい出しました。源氏だといったほうが室町幕府の下で好都合だと思ったからでございましょう。

誰もそんなことは信じていないのでございますが、古い門閥の方々に出世を納得してもらうためには、そう言う噂があった方が良かったという事情のあるのでございましょう。秀吉がただの農民なら関白になるなどもってのほかだが、高貴な方の御落胤である可能性があるなら仕方ないと思う人もいるわけでございます。

戦国時代に生きた蓮如上人も、石山寺本尊の如意輪観音が生まれ替わったという伝説を流布されていますから、よく似たものでございます。また、秀吉が太陽の子だとか云うのは、明や朝鮮など各国への書状に書いておりましたから、中華文化圏での受けを狙ったものでもございました。

秀吉は最後まで自分が貧しい百姓の子であることを隠したこともないし、むしろ、それを誇りにして自慢しておりましたから、そのことで、なにか、秀吉がいじましい人間であるかのように言われるのは、誠に、誠に残念なことでございます。

* 日蓮宗常泉寺は、同じ中村生まれの加藤清正が創建したお寺で、「豊臣秀吉の像」「秀吉産湯の井戸」「秀吉御手植の柊」がある。ここは、竹阿弥の屋敷があったところらしく、子供の時に秀吉が住んでいたようだ。

* それとは別に、明治16年(1883年)、愛知県令国貞廉平が「豊公誕生之地」と記した標柱を建て、その二年後に豊國神社が創建された場所がある。しかし、『太閤素性記』には、秀吉が生まれたのは、上記二箇所がある上中村でなく中中村であるとされており、800メートルほど南にある。GoggleMapでは「弥助屋敷跡」で検索できる。

* 秀吉の出身階層については、さまざまな説が出されているが、強引なこじつけも多い。連雀商人と呼ばれる行商人だったから賤視されるような階層だったとか云うのもあるが行商人が店を構える商人より下だというような一般的価値観があるわけでない。興味を引くのは、情報収集や土木技術に強かった、声聞師と呼ばれる民間陰陽集団と関わりがあるのでないかという推察である。

戦国という時代を、思う存分に夢を見ながら生きた秀吉夫婦と、それをとりまく人たちを「北政所寧々の回想」というかたちで、秀吉の生涯とその時代を等身大で描く『寧々の戦国日記』をNewsCrunch というネット・メディアで連載しています。「浅井三姉妹」「井伊直虎」「篤姫」に続いて、私の妻の衣代と共同執筆で、令和日本が求めるリーダー・秀吉と寧々の一生を歴史学の最新研究成果と、政治外交史の専門家としての私の解釈と衣代の女性史についてのセンスで展開しています。さらに新進気鋭のイラストレーター・ウッケツハルコが華を添え、若い女性編集者たちが編集に加わってお届けします。ここ二か月本能寺の変の前後を題材にしてましたが、今月は二人の結婚、さらに、それに先立つ秀吉の出自と少年時代を扱っています。今回は、第八回『秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密』、第九回『 貧しい出自を誇り母を大事にした秀吉が隠した“父親の影”』をまとめて短縮版にしてアゴラの皆さんに提供します。連載全体のリンクは下記から入って下さい。

令和太閤記「寧々の戦国日記」