平成とはどんな時代だったのか――小泉純一郎から安室奈美恵まで網羅しているので、「平成史―昨日の世界のすべて」はひとことで表すのは難しい稀代の歴史学者、與那覇潤による大著である。忘れてさられてしまった個々の出来事への意味づけは見事としかいいようがない。けれども、その視点に通底するのは、「歴史」を捨てても構わない社会になってしまったという悲痛な告白である。
「歴史」はどうしてなくなったのか。
著者は、「歴史」の再構築の完成系として、百田直樹「永遠の0」をあげる。
「永遠の0」は平成日本のメディアに生じた変化を集約したスタイルで書かれている。かなり問題のある修正主義的な表現も、その熱心な読者にとって問題とはならなかった。
その作品が、震災と原発事故後の「泣ける話」を求める世の中に受け入れられ、平成最大のベストセラーとなった。
また、2013年は、白井聡「永続敗戦論」や孫崎享「戦後史の正体」といった作品が世に問われた。左右両方の論客から「歴史」の再構築を試みた論考が出そろった年でもあった。
小説、映画、アニメーションといったエンターテイメント・メディアの中では、もはや「歴史」は主人公が作中を動きまわるための背景にしかなりえなくなっている。
こうして平成のうちに、「戦後」も「歴史」もない世界へと社会は変貌した。
歴史がなくなっても、もう心配しなくていいんだな。人はかつて歴史に託してきたことを、別の形でなんども甦らせては、繰り返していく(平成史P502)
平成には、このような「閉じた円環運動」が繰り返されるようになった。
過去からの歩みをなぞることが、人類や社会の「進歩」を描くことと等価だった時代は、とうに過ぎ去ってしまったのだ。
歴史とはもう、過去から未来への時間軸を超えて、人びとに「共有されるもの」ではない。いわば歴史が歴史でなくなってゆく時代だった平成の後に、残るものは何なのか。(平成史P543)
平成は冷戦と次の大きなうねりとの「戦間期」ではなかったかと著者は言う。「元」歴史学者から見れば、思想的に貧しく、寂しい「戦間期」だったように思えるというのだ。
ひとことで言えば、「ひと月前の自分」と今の自分は異なり、その現在の自分と「ひと月後の自分」も違う。主張や感性が正反対のものになるくらい違うし、そしてなにより、そうしたあり方こそまったく自然なものだと感じて、なんの違和感も覚えない人こそが、この国では標準的な人間らしい。(歴史なき時代にP220)
真理を究める場であったはずの大学においても、現在と過去とを生きた人間どうしの「対話」はもはや成り立たないという。「実証さえすればよい」といった浅薄な流行が示したのは、日本の歴史学や人文学が、社会でともに暮らす他者との「共感の基盤」を養うという使命を忘却したという事実だ。
もはや「歴史」を捨てても構わないと言う才気あふれる「元」歴史家の嘆息は、深い。
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