あらためて、何のための東京五輪? #TOKYO2020

続「1964」の夢と現実
57年後の日本に「東洋の魔女」はいなかった。8月2日のバレーボール女子1次リーグ最終戦。日本代表はドミニカ共和国に敗れ、四半世紀ぶりに決勝トーナメント進出を逃した。ため息をついた人は多いはずだ。1964年の東京五輪で全国を沸かせ、戦後昭和の成功物語を象徴する女子バレーチーム「東洋の魔女」――。さきごろは菅義偉首相も栄光...

日経の論説委員会の大島三緒氏の論考が秀逸だった。あらためて、何のための五輪だったのだろう?五輪に対する賛否は特に新型コロナウイルスショックにより議論が盛り上がりをみせたが、この賛否はコロナ前からあったことを忘れてはならない。いま、五輪をやる意味は何かと。「人類が感染症に打ち勝った証」など様々なポエムが連呼されたが、結局、腑に落ちなかった。

オリンピック閉会式 首相官邸HPより

開会式・閉会式が酷評された。私ももちろん、批判する。ただ、この開会式・閉会式もまた、その前後のバタバタを含め、日本の縮図ではなかったか。

もっとも、選手や大会運営スタッフは獅子奮迅の活躍を見せた。大会の開催の是非とその運営には賛否があるものの、選手の活躍はたしかであり、日本のスポーツは前進していた。

さて、これからの日本をどうするか。今こそ考えよう。

感染爆発の中で五輪閉幕 賛否の17日間が残したものは:朝日新聞デジタル
 東京オリンピック(五輪)が8日閉幕した。17日に及んだ大会期間中、新型コロナウイルスの国内の新規感染者は17万人超増え、医療を圧迫した。五輪選手団と一般の人たちを分離した「バブル方式」。その内側と外…

朝日新聞の社説があまりにイマイチだったので、朝日新聞デジタルのコメント欄に、「ぼくのかんがえるさいきょうのあさひしんぶんしゃせつ」を投稿した。思ったことを早朝に書き綴ったものだが、ご一読頂きたい。

■欺瞞に満ちた「平和の祭典」

人類は、戦争のときは平和を祈り、平和になると戦争の準備をしてきた。世界のどこかでは常に戦争、戦闘がある。

「平和」とは何だろう。皮肉なことに、東京五輪は過去最高にこの問題を提起してしまったという点で「大成功」ではないか。人類は感染症の爆発的拡大と経済的破局の深刻化という未曽有の歴史的危機に直面している。この「穏やかではない」状態で五輪は強行されてしまった。

この「平和の祭典」は、人々の「我慢」によって成り立っている。家族を失った人、仕事を失った人、今まで通りには働けない人、人生の楽しみを我慢せざるを得ない人、何かを諦めた人によって成り立っている。「パラレルワールド」という言葉も流行ったが、テレビやスマホに映し出される五輪の光景は、キラキラして見えたかもしれないが、心から喜べなかった国民も多いのではないか。

五輪とは何か、平和とは何か。人々がこれらの問題を考える機会になったとは信じたい。

■成長も成熟もせず

この五輪の欺瞞性、瞞着性を象徴するものが、開会式、閉会式ではなかったか。我が国が成長も成熟もしていないことを万国の労働者に伝えるステージだった。

五輪には良くも悪くも国家のビジョンを伝える機能がある。しかし、ここで我が国がどんな国でありたいのか、何が強みなのかという点がまったく抜け落ちていた。あったとしても、それは別に圧倒的優位ではないことは明らかだった。演出も登場人物もただひたすら無難で古かった。世界の人々に響くのか不安になった。いや、世界の人が誰でも知っている日本の人がいない、少ないという点が可視化されたのではないか。まるで会社の社員総会のようにひたすら内向きであった。

アニメやゲームのキャラクターがもっと登場するべきではなかったか。あるいは、二度も原爆を起こされ、震災や原発事故を経験した我が国だから強く主張するべきことはなかったか。

五輪閉会式の主役は、選手であり、次の夏の五輪開催国のフランスだった。歴史、文化、この国が何を大切にしてきたかがにじみ出るものだった。高揚感とジェラシーが同居してしまった人も多いことだろう。

世界の中心で時代を遅れを叫んでしまった。これが東京五輪ではないか。

■マチズモを削りとれ、新世代という希望

この五輪開会式、閉会式には、電通的な何か、男社会的な何かの終わりを感じた。皮肉なことに、これが五輪の「遺産」ではないか。

ライター武田砂鉄の『マチズモを削り取れ』(集英社)が話題を呼んでいる。日本にはびこるマチズモ=男性優位主義の実態を徹底検証したものだ。「男、めっちゃ有利なのだ。男、めっちゃ優位なのだ」本書の主張はこれだ。

五輪で可視化されたのは、マチズモである。数々の問題発言があった。期間中にも、名古屋市長の河村たかしが、女性選手の金メダルにかじりつくだけでなく、セクハラ発言を連発するという事案があった。

この日本の問題、周回遅れであるという事実を可視化した点は大きい。これを五輪の「遺産」として、社会を変える機会としたい。

成長、成熟がないわけではない。空前のメダルラッシュだった。もちろん、ホームだからなどという理由はあるだろう。ただ、それだけではなく、日本のスポーツが進化したことは素人目にみてもわかる。ここは直視したい。これまでとは練習方法も視野も異なる選手たちが育ちつつある。

開会式では国内外の選手が、スマホを片手に入場してきた。この件について違和感を抱いた人もいることだろう。今回から正式種目となったスケートボードの瀬尻稜さんによる解説が「フランクすぎる」とも話題となった。「鬼ヤバいっすね」「いや~ハンパねえっす」「ゴン攻め」などと連呼した。

マナー違反だとみる向きもあるだろう。しかし、これまでの枠をこえた若者の存在が、五輪の数少ない希望だった。

■ポエム政治に死を

今回の五輪で連呼されたのは、ポエムだった。「この感動を、次はニッポンで!」「復興五輪」「コンパクト五輪」「人類が感染症に打ち勝った証」など、俗耳に馴染むスローガンが連呼された。いちいち主張はふわふわしていた。しかし、この言葉に一部の国民がおどらされていたこともまた事実だ。

五輪はいったん終了した。まだパラリンピックはあるが、いったん日常に戻ろう。脱・密室、脱・空気の支配、脱・男社会などを志向しよう。高い授業料を払った倫理の授業だった。無駄にしてはいけない。最後に、選手、大会を支えた人、医療従事者、五輪で何かを我慢せざるを得なかった人に心からの敬意を。


編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2021年8月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。