45年9月2日、日本は降伏文書に署名した。元外交官で国際法に通暁する色摩力夫(1928~)に「日本人はなぜ終戦の日を間違えたのか」(黙出版)がある。本稿では、同書と、同じく外交官だった藤山楢一の「一青年外交官の太平洋戦争」(新潮社)とを読んでの筆者の雑感を述べたい。
色摩は日本降伏の成立は9月2日であるとし、それは「双務的な契約」である「降伏」の成立が9月2日の「降伏文書署名」に依るからだと述べ、連合国側に対し「ポツダム宣言」の「降伏条件受諾」を通知した8月15日の時点で「戦争はまだ終わっていなかった」とする。
そして「無条件降伏」したのは「日本軍のみ」で、そのことは「降伏文書」を見ても、また降伏条件が列挙されている「ポツダム宣言」を見ても一目瞭然とし、「わが国は1945年9月2日に、軍隊としては無条件降伏を受諾し、国家としては条件付きの降伏をした」と結論する。
まことに腑に落ちる記述だが、筆者にはとりわけ同書の「空白の18日間と北方領土の悲劇」の項と「一方的に征服されたドイツ」の項も興味深かった。先ず前者から述べれば、ソ連は我が北方領土を「北千島」、「南千島」、「歯舞諸島」の三つの作戦を以って占領した。
玉音放送のあった8月15日に始まった北千島作戦は、23日の占守島占領を皮切りに31日の得撫島占領までをいう。18日からの南千島作戦では、25日に南樺太占領を終えたソ連軍が28日に択捉島を占領、9月1日に国後と色丹に上陸した。
歯舞諸島作戦は9月2日に始まり、5日にまでに無血占領された。南千島も日本側の抵抗なしに占領されたが、北千島作戦では、樋口季一郎麾下の陸軍第5方面軍が千名以上の犠牲を払って「英雄的な抗戦」を行い、ソ連軍に15百名以上の戦死者を数えさせた。
筆者には、歯舞での日本側の無抵抗が「降伏日」を過ぎていたからのことだとしても、南千島での無抵抗は解せない。色摩も「降伏が『契約』であるとことを正確に知っていれば9月2日まで・・戦争行為が終結していない事実に思いが至るはず」と書いている。
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原爆投下から9月2日までの「3週間」については、東京裁判でブレークニー弁護士が、原爆がパリ不戦条約に違反することの証拠提出に関してウエッブ裁判長と以下のやり取りをしている(冨士信夫「私の見た東京裁判」講談社学術文庫)。
ブレークニー弁護士(以下:ブ):もし検事がハーグ条約第四をご存じなら、その陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(*毒ガスや細菌など非戦闘員に害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存じでしょう。
ウエッブ裁判長(以下:ウ):仮に原爆の投下が戦争犯罪であると仮定しても、それが本訴追にどのような関係があるのか。
ブ:いくつかの返答が出来るが、その一つは報復の権利です。(※国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復する権利が生じる。)
ウ:しかし報復と言うものは、一つの行動が行われた後から起こるものであって、その行動の前に行われるものではない。
ブ:この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されています。
ウ:あなたの言っていることは議論の余地がある。私はそうは思わないが、原爆が二個投下されたことにより、その後の日本の行為のあるものが正当化されるかも知れない。あなたはハーグ条約第四が死文化されたということに基礎を置いているようだが、その他の点はどうなるか。
ブ:原爆投下以前のことについては別の証拠で立証します。原爆投下後のことは、(日本が)報復的手段をとったということで正当化できます。
ウ:それはわずか三週間ですよ。(※8月6~9日から降伏文書調印の9月2日を指す)
ブ:しかしそのわずか三週間も被告の誰かを有罪にすることができます。この三週間にかかわる期間のことでの検察側の証拠書類は相当多量です。例えばマニラの事件・・
ウ:その件は考慮しよう。十五分間休憩する。
結局、「多数決により却下」されたのだが、この問答は、9月2日までは戦争継続中だったと裁判関係者が認識していたことの証左ではなかろか。とはいえ、9月2日以降の歯舞諸島作戦が無視されたのは実に遺憾なことだ。
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斯く同書は9月2日を強調する。が、実は書名とは裏腹に同書の主題はそこではなく、国際法の観点から降伏を論じた「降伏論」だ。
色摩は日本の降伏とドイツ・イタリアの降伏とを対比し、ドイツは「軍隊としては無条件降伏したが、国家としては降伏さえも認められず、一方的に征服されている。従ってドイツ政府は壊滅したと見做され、米英仏ソによる軍政の下に置かれた」と述べる。
ヒトラーの遺書はデーニッツ元帥を総統に指名していた。が、色摩は降伏文書4項に「この降伏文書は、建前として暫定的なものであり、今後締結されることあるべき国家としての降伏文書により当然に廃棄される」とあり、デーニッツ政権の当事者能力が認められていなかったと指摘する。
イタリアは三国同盟の締結から3年後の43年9月に落伍する。これが「降伏」か「休戦」かは「必ずしも判然としない」と色摩はいう。「戦争責任回避のため組織的に関係書類を焼いた」イタリアからは勿論、連合国側からも一次資料が出ていないからだと。
ドイツの統制下、43年7月にムッソリーニを逮捕して成立したバドリオ内閣は、単独講和を意図しつつもドイツを恐れて隠密裏に連合国側との接触を図る。結果、連合国側の出した「休戦」内容は実質的な「無条件降伏」で、バドリオはひと月半経っても受け入れを決断できない。
業を煮やしたアイゼンハワー司令官は、ラジオでイタリア国防軍の無条件降伏を発表する。バドリオも仕方なく追認するが、直後、国王もバドリオも国防部首脳も、国民への説明もなしにドイツ統制下のローマを逃げ出したのだ。アフガンのガニ政権崩壊によく似ている。
日本の降伏とドイツ・イタリアのそれとは斯くも異なるものだった。
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藤山楢一(1915~94)は40年春に東大法科を出て外務省に入り、7月にはワシントンの日本大使館に赴任したが12月の開戦で抑留され、交換船で帰国途中にドイツ大使館へ転勤になる。赴任したドイツの崩壊で脱出したオーストリアで米軍の管制下に入り、米国に送られて再び抑留されるという稀有な経験をした。
藤山の帰国は45年12月6日、渡米から5年半、開戦から丁度4年が経っていた。その間ずっと海外にいた彼は、日本で空襲に遭っていない代わりにドイツで連合軍の空襲に晒され、地下にいたベルリンの日本大使館で直撃弾も浴びていた。
藤山本は5年半の興味深い経験譚で溢れている。ドイツ降伏については、くだんのデーニッツが「英米仏連合軍には確かに負けたので降伏する。だが、東部戦線で降伏すれば全欧州が共産化されてしまう。故にドイツ軍はソ連に対しては戦い続ける」と演説したが、連合国側が「一蹴した」そうだ。
当時の日本大使館には日本から留学していたヴァイオリニスト諏訪根自子嬢が身を寄せていた。筆者は19年6月の拙稿で彼女に触れたが、藤山は、後に根自子と結ばれる大賀小四郎と机を並べ、米軍に連れていかれた米国から45年12月の帰国まで二人と行動を共にしている。
藤山は41年12月7日に日本大使館で起きたことも克明に描いている。筆者は19年9月の拙稿に「真珠湾の奇襲が行われた7日(現地時間)は日曜日で、前夜に転勤する寺崎の送別会があった大使館にはタイプを打てる者が奥村しかいなかった」と書いた。
が、藤山は「メモ」を基に、「送別会」は井口参事官が「忙しいだろうが、ひとまずメシにしよう。たまには皆で食事がしたいよ」と言い出しての6~7名のもので、「奥村、結城両書記官の姿」はなく、電信関係者も「電信のヤマ」に「夕食に出かける余裕もない」と記している。
筆者の奥村像も、大使が出かけた直後に「奥村書記官がチョッキの両脇に親指を掛け、パイプをくわえたまま興奮して部屋に」入ってきて、「テレタイプを見給え、日本軍はマニラと真珠湾を攻撃しているよ」などとの描写を読み、少し変わった。多様な資料に接することが、特に歴史では必要だ。