1983年生まれという若い東洋思想・神道研究家の羽賀ヒカルさんと古代史をめぐって対談した。羽賀さんが主宰するYouTube「神社チャンネル」で対談した。歴史や神話に非常に造詣が深い方だし、編集も高い技術でやっていただき、テンポよく話が展開している。みなさんにもぜひご覧頂きたいので、リンクを貼っておくとともに、本記事では内容について少し解題しておく。
内容は、池田信夫先生の『「男系天皇」が古代からの伝統だというのは迷信である』という素晴らしい記事と同じテーマの部分があり、ある意味では反対論も含むのだが、この記事は池田先生の所論への反論ということを意図して書いたものではない。いろんな前提が違うので、あまりかみ合っていないのである。
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というのは、まず、私は日本神話に限らず、「神話」には、ほとんど興味がないのだ。というのは、歴史と神話は連続したものとは思っていない。むしろ、しばしば、まったく違う民族などから拝借されることが多い。
たとえば、ローマ神話などまるでギリシャ神話からの借り物だ。南方民族的な中国神話はおそらく先住民族のもので、漢民族の歴史は黄土高原から起こった黄帝の物語になんらかの民族の記憶の反映があるかもしれないといった程度だ。
『記紀』に書かれている内容でいえば、歴史部分は神武天皇からであって、神話とのグレーゾーンは、日向三代で、神武天皇の曾祖父が日向にどっかから移ってきたが、どこからか分からないから天から降ってきたとしたのかもしれない。
天照大神が男か女かとか国譲りとかいうのは、出雲神話をはじめ、あちこちの神話からの借り物であろう。神武以前の大和の支配者が出雲と繋がりが深かったのかもしれないから、皇室の歴史と関係ないと思う。
まして、『古事記』に書いているが、『日本書紀』に書いてない、あるいは、「一書に曰く」とかいう扱いのものは、否定され却下されたものだという理解だ。
私の神武天皇論の根幹は。神武東征はなかったということだ。『記紀』に書いてあるのは、日向から出奔した数人の武人が流浪の旅をしている間に力を蓄え、奈良県橿原市から御所市にかけて支配する地域の領主となったということで、大軍を率いて出征などしていない。
11代目の崇神天皇に至って大和を統一し、吉備や出雲まで勢力圏に入れ、その曾孫のヤマトタケルなどの活躍で、関東や九州の一部まで進出し、その子の仲哀天皇が北九州を傘下に収めて日本を統一し、天皇の死後、神功皇后が半島に進出したというものだ。
海外の文献では、韓国の『三国史記』や好太王碑にそれと符合する記述があり、五世紀に入ると、『倭の五王』の使節が中国南朝に使節を出し、建国の経緯や帝王の系図についても少し触れている。
それによれば、大和朝廷(大和政権は特定の傾向の思想の歴史家の新造語)は、畿内で生まれ東西日本を征服し、半島に進出したと書いてあるのだから、『記紀』の記述とぴったり合うし、複数の系統の王朝が並立していた様子もない。
つまり、『記紀』は中国や韓国の史書とも、好太王碑ともぴったり合うし、考古学的な矛盾もない。ただ、長過ぎる帝王の寿命を普通の寿命に修正すればいかなる不自然さもない。
そこから推定すると、崇神天皇は、卑弥呼より一世代くらいあとの人だ。つまり、北九州に大和朝廷が進出した四世紀より百年近く前に滅亡した九州のローカル国家だから、大和朝廷の記憶になんの痕跡も残してないのは当然だ。
邪馬台国の位置については、帯方郡から12000里とされており、帯方郡から筑豊地方の不弥国までの距離を足したら、10700里であるから、残りは1000里あまり、つまり100キロ圏であって、九州から外に出る可能性は非常に小さい。少なくとも畿内ではない。
神武天皇と崇神天皇が両方ハツクニシラスなのは、零細企業として創立者と、大企業に育て上場でもさせた中興の祖が二人とも創業者的に扱われていたというだけのことである。企業でもよくあることだ。
以上のような話は、日本史全体のなかでの展望は、「365日でわかる日本史 時代・地域・文化、3つの視点で「読む年表」」(清談社)、中国や韓国との関係では「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)に書いてある。
万世一系については、次回に紹介する。