バイデン大統領と習近平国家主席は11月15日(EST)、バーチャル会議を3時間半余りにわたり行った。米国側はブリンケン国務長官、イエレン財務長官とサリバン国家安全保障顧問が、中国側は外交トップの楊潔篪主任、通商担当の劉鶴副首相と王毅外相が陪席した。
米国側には7月に、台湾と「非公式の強固な関係を支持する」としつつ「台湾の独立は支持しない」と講演で述べ、「一つの中国政策」堅持を確認したキャンベル大統領副補佐官(国家安全保障会議インド太平洋担当調整官)とローゼンバーガー大統領特別補佐官(国家安全保障会議中国・台湾担当シニアディレクター)も参加した。
ホワイトハウスは16日、会談の台湾部分について以下の様に発表した。
バイデン大統領は台湾について、米国が台湾関係法、3つの共同コミュニケ、6つの保証に基づき、「一つの中国」政策に引き続きコミットしていること、また現状変更したり、台湾海峡の平和と安定を損なったりする一方的な取り組みに強く反対することを強調した。
一方、環球時報は16日の社説で台湾部分をこう述べた。
最も敏感な台湾問題については、両国はそれぞれの立場を繰り返し表明した。米国は米国標準の「一つの中国政策」を述べたが、バイデンは米国が「台湾独立」を支持しないことを明確にした。これにより、米台の結託が両岸の平和と安定の政治的基盤を継続的に損ない、軍事的緊張の激化に繋がるのを抑制する積極的な役割を果たすことが期待されている。
筆者は環球時報社説が「一つの中国政策」に付けた「米国標準の」(its standard American “one-China policy”)との形容詞に注目する。北京が固執する「一つの中国」に係る「92年合意」を、北京は「一つの中国原則を口頭で確認した合意」と、台湾国民党は「一つの中国の中身を両岸が述べ合うことで合意」したと解釈(筆者注:国民党の解釈は「大陸が台湾の一部」)し、民進党蔡政権は合意自体が「存在しない」としている(小笠原欣幸東京外語大教授)。
つまり「一つの中国」に関しては、米国、中国、台湾の国民党と民進党に「それぞれの立場」がある。だからこそ、中国共産党が党創建100年史を総括する「歴史決議」で、「台湾問題を解決し、祖国を完全統一することは、我が党の変えることのできない歴史的任務だ」と強調したことに、蔡政権の大陸委員会は「台湾は中華人民共和国の一部になったことがなく、両岸は互いに属さないことは客観的事実」と反論する。
クリントン政権のマカリー報道官は94年9月、「米政府は台湾を中国の一部と考えているのか」と記者に問われ、「勿論、それが我々の“一つの中国”についての一貫した見解だ」と答えてしまい、後に「我々は、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であるとの中国の立場を確かに認識(acknowledge)する」と修正した(ペンシルベニア大ウォルドロン教授「本当に中国は一つなのか」草思社)。
米大統領報道官をも混乱させる「台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認識する」との米国の判り難い物言いは、日中共同声明の「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明する「中国政府の立場を十分理解し尊重する」と同義で、台湾を中国の一部と認めてはいない。が、国際社会の多くの人々も、またバイデン大統領も、どこまで明確にこの違いを理解しているか疑わしい。
そこで日米や西側諸国のこの微妙な立場を理解するべく、49年10月1日に成立した中華人民共和国(以下、中国)を国際社会が承認する経過、および71年10月25日の中国代表権に係る国連決議を振り返ってみたい。
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49年1月21日、毛沢東の共産党軍に敗北を重ねる中華民国政府(以下、国府)の蒋介石は総統を副総統李宗仁に譲り、李は共産党との和平交渉を開始する。が、交渉は4月20日に決裂し、国府は首都南京を放棄、広州、重慶、成都と敗走し、12月上旬には台北に臨時首都を置いた。中国成立は広州撤退前後の10月1日のことだ(竹茂敦「台湾の外交関係断絶国との実務関係」日本台湾学会報07年5月第九号)。
ソ連は10月2日に共産中国を承認、続いてブルガリア、ルーマニアなどユーゴスラビアを除く共産諸国 10 ヵ国が11月末までに中国との外交を樹立した。12月にはビルマ(16日)とインド(30日)が中国を承認、明けて50年1月6日に英国、7日はノルウェーと非共産主義国の承認が続いた。
共産圏の中国承認国に対しては進んで国交断絶を宣言した国府も、英国以降は非共産国に対し領事関係の継続や通商や交通関係の維持を模索し始める。その背景には、王育徳や邱永漢などもそこを経由して日本へ密航した、英植民地の自由市香港との関係断絶に対する懸念があった。(参考拙稿「王育徳と邱永漢、そして彼らにとっての台湾と香港」)
28年7月25日に蒋介石の国民党政府を中国全土の代表と認めた米国は、39年後半に汪精衛の南京国民政府を樹立しても、撤退した重慶に臨時政府を置いた蒋の国民党政府を唯一の中国政府と見做した。ルーズベルト大統領の知友ヘンリー・ルースは、経営する「TIME」誌の表紙に蒋介石と宋美齢夫妻を幾度も登場させて支援した(参考拙稿「COP25で話題の雑誌『タイム』、それを創ったのはこんな人物だった」)
が、49年8月、米国は国府の腐敗を批判する「中国白書」を発表、50年1月5日にはトルーマンが「軍隊を使用してその現状に干渉するつもりはない」、「合衆国を中国の国内紛争に巻き込むことになるような道は辿らない」と台湾海峡への不干渉・不介入を表明した。さらに同月12日にはアチソン国務長官が演説で「アリューシャン列島から日本へと延び、さらに沖縄諸島」に至り「沖縄諸島からフィリピン諸島に連なる」と、米の防衛線に台湾と朝鮮が含まれないことを示唆した(竹茂前掲書)。
これらに関連し識者の一部には、未だに「共産中国は米国がつくった」、「アチソン国務長官が朝鮮半島と台湾を守らないと演説し、朝鮮戦争の引き金にした」などと、環球時報の「米国は台湾を守らない」との論に加担するかのような発言がある。
だが、こうした米国の対中観・対中政策は朝鮮戦争によって激変した。毛沢東時代に本卦還りした習近平の共産中国に対する米国や国際社会の見方も、トランプの登場や香港・ウイグルなどでの人権蹂躙とも相俟って、ニクソン・キッシンジャー当時の路線から大きく変貌している。日進月歩の国際情勢に昔の物差しを未だに当て続けるのは如何なものか。
さて、国府と断交した英国だが、領事関係の継続と淡水の英国領事館の存続を提案し72年まで継続した。一旦中断の後、93年に領事機能を持つ「英国貿易文化弁事処」を開設、15年には「英国在台弁事処」と改名した。台湾も主要西側諸国に台北代表処を設けている。日本のそれは台湾日本関係協会で、日本は台湾に日本台湾交流協会を置く。米国のカウンターパートは米国在台湾協会(AIT)だ。
国家の権利及び義務に関する「モンテビデオ条約」(33年)に拠れば、一定の政治的存在が国家であるためには、「永続的住民」、「一定の領土」、「政府」、「他国との関係を取り結ぶ能力」の4要素が必要とされる。ここで「永続的な住民」とは、人種、言語、文化などが同じかどうかを問わず、一つの社会を構成している個人の集合体をいい、通常は国籍によって国家と結び付けられる。
「一定の領土」とは、住民が定住する空間で、領土の境界は必ずしも明確に確定される必要はないが、「政府」は領土及び住民を実効的に支配する政府でなければならない。「他国との関係を結ぶ能力」とは、特に対外主権を指し、条約締結権、外交使節派遣権、戦争権などの形をとる。(参考拙稿「台湾や香港よりも“国家”としての要件を欠く中国」)。
これらすべてを完璧に満たす台湾は、歴とした国家に相違ない。
(後編に続く)