日本市場であれば日本人として営業で優位に立てるとスペインで考える

筆者のサーキュラー活動は続いた。

イントゥラ社での中東への売り込みを経験した後、これからは日本市場だけに絞ることに決めた。日本市場に何でもよいから売り込みをするということにした。そうすれば、筆者は日本人ということで優位に立てると考えた。

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例えば、中東だと他のスペイン人やイタリア人と同等のレベルの営業で戦う必要がある。特に、家具についてだと、スペインでは中東との取引に熟知しているスペイン人も多くいる。そのような中で後発である筆者が這い上がって行くよりも、日本市場であれば筆者も同じ日本人として営業で優位に立てると考えたからだ。

そこで、徹底して日本向けにサーキュラーを送った。当時はまだワープロも登場していなかったので、タイプライターで英文を書いてそれをコピーして日本の企業に郵送した。当時のお金にして年間で100万ペセタを郵送代に使った。日本円にして72万円くらいになる。

筆者が輸出できる商材をサーキュラーにして売り込んだ。当時はサーキュラーで返事が返って来る確率は2%と言われていた。100通送れば2通の返信が来るという割合だった。但し、その返信がその後の取引に結び付くのは商材にもよるが非常に僅かであった。それでも筆者はそれを送り続けた。何事も根気よく継続することである。

そうこうしている内に、ある1社から陶板の入った家具(日本ではタイル入り家具として知られていた)を輸入したいという引き合いがあった。家具については当時すでに一部の生産業者を知っていたし、陶板家具を生産していたメーカーも知っていた。

しかし、そのメーカーはすでに日本に顧客をもっており独占で輸出していた。このメーカーはマデスという社名の企業で同社が生産している家具の7割が日本向けだった。後日、このメーカーの社長ヘルマン氏を知る機会があり、彼から相談を受けたことがあった。

ということで、このメーカー以外にそれを生産しているメーカーを探す必要があった。そこで相談したのが、カーステレオを輸入していた際に通関してくれた乙仲(海運貨物取扱業者)であった。

この乙仲に相談すると、そこで勤務していた一人が、「私の(マンションの)隣人がそれを生産している」という回答があった。筆者のそれまでの努力にカミが味方してくれたのであろう。早速、その隣人のメーカールスティック社を訪問した。

同社の社長ビダル氏が陶板家具を生産するようになったのは、彼がマデス社の営業を担当していたというのが起因だった。彼はマデス社を辞めて独立して同じタイプの家具の生産を始めたということだった。

引き合いをくれた会社HAG社にその家具のサプライが可能であると返信した。それから時が余り過ぎることなく同社の輸出担当社者がバレンシアに来てくれた。彼の名前は石川さん。会社は倉敷にある。早速、ルスティック社に案内した。

それで20フィートコンテナの注文が同社から入った。その時は筆者と家内の弟は筆者のマンションの一室を事務所にしていた時だった。

当時、筆者はローバー社の中古ミニに乗っていた。ジャッキがなく、石川さんをお連れしていた時にパンクして近くの修理屋に行ってジャッキを借りたというのを今も記憶している。これだけでも筆者は貧相な輸出屋だというのは一目瞭然だった。それでも誠意をもって応対した。その後、筆者の車はフォードのフィエスタ、ルノー5、フォードのシエッラ、BMW523iと乗り換えて行った。

BMW523iは20年乗った。走行距離は45万キロ。エンジンは最後まで調子が良かった。さすが高級車だと感じた。勿論、大事に使った。しかし、40万キロを過ぎたころから部品の故障が目立つようになって運転中に故障するのではないかと不安を抱くようになっていた。

実際、運転中に故障してクレーン車を呼ばなくてはならないことがあった。それで筆者がいつも頼りにしている修理屋と相談して昨年ポンコツ車にすることにした。その修理屋に相談して中古のトヨタ・ヤリスを購入した。長距離を運転する必要もなくなったし、お客をアテンドするのも偶にしかない。この年齢になって新車を買う気もしなかった。

BMW523iは十分に仕えてくれたと感謝してこの車の写真を仕事部屋の壁に貼っている。筆者の友人にはプロの画家がいるので何れそれを絵に描いてもらうつもりだ。

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