金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(中編)

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上海の情勢も「喧嘩両成敗」で民族主義者も崩れていき、韓国独立党だけが辛うじて民族陣営の外形を維持していた。臨時政府には人も金もなく、李承晩の次に大統領になった朴殷植(1926年3月)も、大統領制を国務領制に改めただけで辞任、国務領に選ばれた李尚竜以降の何れも組閣に失敗し、臨時政府は暫く無政府状態に陥った。

(文中の➡と(*)は筆者補足)

そんなある日、議政院議長李東寧が金九を訪れて国務領になることを勧めた。金九は二つ理由を挙げて固辞した。一つは、自分が満洲の僻村の一介の尊位(部落のまとめ役)の倅に過ぎず、斯様に微賤な出自の元首では、国家と民族の威信に係ること。

二つ目は、李尚竜や洪冕熹らさえ人が得られず組閣に失敗したのに、金九の呼び掛けではなおさら応ずる人物はないだろう、というもの。が、李氏が「第一の点は理由にならない」、「第二の点は出る気になれば従う者はいる」と強く勧めたので、金九は承諾した(1926年12月)。

金九は組閣後、一人に責任を負わせる国務領制を廃止し、国務委員制に改正した。この制度では、主席は会議を主宰するだけで、国務委員は全て権利において平等になった。これにより主席は委員たちの輪番でも可能になり、従来の分裂を一掃することが出来た。

安定はしたが政府の経済は、家賃三十円、給仕月給二十円すら払えない困窮ぶりで、政府の名を維持することすら難しくなった。他の委員は家族と一緒だったが、金九は二人の息子を本国に帰し、一人臨時政府の政庁に寝泊まりした。食事は職業を持っている同胞の家を巡り歩いてとった。

当時の同胞の職業は電車会社の切符検査員が最も多く七十名ほどいた。彼らは金九の立場を知っていたので、誰も嫌々食べさせるというのではなかったと思うと金九はいう。厳恒燮は仏工部局の月給で李東寧や金九のような困窮した運動者を食わせて助けた。

李承晩大統領の頃(1920年4月-21年6月)の政庁には、中国人に加え英米仏などの外国人も訪ねて来たが、後には西洋人といえば仏人巡査が倭の警官を帯同し人を捕らえに来るか、家賃滞納の理由を質しに来るくらいだった。斯くて最盛期に千余名いた独立運動者がついには十数名にもならない程になった。

減った理由は、第一に臨時政府軍務次長の金義善、「独立新聞」社長の李光洙(*安昌浩の伝記を書いた著名な文学者)、議政院副議長の鄭仁課らが倭に降服して帰国したこと、第二に本国各道から面まで組織した「聯通制」(情報伝達機関)が発覚して同志が捕まったこと、第三に生活難で各自生活の資を稼がねばならなくなったからだった。(*参考拙稿

臨時政府のなすべきことの第一は資金調達だが、本国や満州とは連絡が断たれていたので米国とハワイの同胞に事情を伝え、支援を求める以外になかった。そこで思い付いて徐載弼(1863年-1951年、金玉均に連なる開化派官僚)や李承晩や安昌浩の薫陶を受けている同胞に支援依頼の手紙を出した。

暫くしてシカゴの一面識もない金慶から「当地の共同会で集めたから家賃にでも」と百ドル送って来た。ハワイでも安昌浩らが臨時政府のために誠意を傾け、米国の国民会(安昌浩系)でも関心が持たれ始めた。メキシコやキューバでは金呼らが、同志会では李承晩らが臨時政府を維持する運動に参加した。

桜田門事件(李奉昌大逆事件)(以下、李事件)

桜田門事件
出典:Wikipedia

ある日、李奉昌と名乗る同胞青年が居留民団(金九は上海居留民団長兼任)を訪れ、「自分は日本で働いていたが、独立運動に参加したいと思ってやって来た」と朝鮮語と日本語とを混ぜて話した。数日後、再訪した李の「あなた方は独立運動をすると言いながら、なぜ天皇を殺さないのか?」という声が聞こえた。

民団事務員が「文官や武官を一人殺すのも難しいのに、天皇をどうして殺せるのかね?」というと、李は「私は去年、天皇が行幸するのを道端で這い蹲って見たが、その時、爆弾が一個でもあったなら天皇を殺すだろう、と私は思った」と言うのだった。

その晩、金九が李を旅館に訪ねると、彼は「国事に献身する道を指導して下さい」と請うた。金九は快諾し「一年以内に貴方のなすべき任務を準備するつもりだが、今の臨時政府の状況では、貴方のその間の生活費を負担することが出来ないので、その点をどうしたら良いか」と訊ねた。

すると彼は「自分は鉄工の技術を身に着けており、また日本語も上手く日本でも養子に入って木下昌蔵と名乗って来た。工場で働いて生活費を稼ぎ、日本人を装って生活しながら、何時までも貴方の指示があるまで待つようにしたい」と答えたので、彼を日本人が多く住んでいた虹口に移した。

一年が過ぎようとする頃、手紙で米国に頼んであった金が到来、爆弾も金も整った。爆弾のうち一個は王雄に上海兵廠から手に入れさせ、もう一個は河南省の劉峙の許から入手した。どちらも手榴弾で、一個は天皇に対して使うもの、一個は李氏の自殺用だ。

1931年12月のある日、李を仏租界の中興旅舎に招いて金を渡した。数日後、彼を安恭根(安重根の弟)の家に連れて行き宣誓式をし、爆弾二個と三百元を渡して「この金は東京まで行く費用に使って良い。着いて電報一本くれさえすれば、すぐまた金を送る」と約束した。

年が明けた1月8日、中国紙に「韓人李奉昌狙撃日皇不中」との東京電が載った。当たらなかったのだ。特号活字で「韓人李奉昌狙撃日皇不幸不中」(*不幸にも)と書いた国民党機関紙の「国民日報」の青島の社屋を日本軍と警察が襲撃して破壊した。日本は中国政府に抗議し、「不幸」と書いた新聞社は閉鎖させられた

翌朝、仏工部局から金九に秘密の通知が来た。「過去十年、仏官憲は金九を保護してきたが、今度金九の部下が日本の天皇に爆弾を投げたことに関しては、日本の金九逮捕、引き渡しの要求を拒む訳にはいかない」というのだった。

➡金九は、32年1月28日から3月3日(停戦)までの第一次上海事変は、同年1月18日夕方に起きた「日本人僧侶襲撃事件」を口実に日本が起したのだが、実際は、李事件と、それを「不幸不中」と表現したことが事変の主要因だった、としている。

その後も金九は、暗殺と破壊の計画を引き続き実行することし、そのための人物を探し求めた。信頼する弟子だった羅錫疇は1926年にソウルの東洋拓殖会社に侵入して日本人七人を撃ち殺して自殺、李承春は天津で捕まって死刑にされていた。

そこで新たに獲得した同志の中から、李徳柱、兪鎮植には朝鮮総督(*宇垣一成)の暗殺を命じて本国に先発させ、次いで柳相根、崔興植には関東軍司令本庄繁の暗殺を命じて満州に出発させようとしていた(32年5月のリットン調査団大連到着を出迎える本庄繁や内田満鉄総裁らを暗殺する計画だったが発覚して逮捕された)。

上海天長節爆弾事件(虹口公園爆弾事件)(以下、尹事件)

ある日、虹口の青物市場で野菜を商っていた尹奉吉が金九の前に現れ、「上海に来たのは何か大きなことをしたかったからだが、中日間の戦争も終わってしまい、なかなか死に場所が見つからない」といい、「東京のような計画があったら使って下さい」という。

金九が「君の様な人物を探していた」、「倭奴たちは・・4月29日に虹口公園で『天長節』祝賀式を盛大に挙行する。その時に大目的を果たしてみてはどうだろう」と、行動計画を話すと、尹は「やりましょう!どうか準備なすって下さい」と快諾した。

紙幅が尽きたので尹事件でのフィッチの関与や終戦までの臨時政府の様子は後編で。

(後編に続く)

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