金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(前編)

高橋 克己

3月9日の韓国大統領選の前に独立運動を記念する「三・一節」がある。文在寅はそこで大統領最後の演説をすることだろう。

独立運動の関連では『朝鮮日報』は1月27日、光復会会長の横領疑惑を報じた。「光復会が国家有功者の子女に奨学金を支給する名分で国会に開業したカフェの資金約431万円が、会長のマッサージ、理髪など個人的用途に使われた」という、呆れるがこの国によくある破廉恥事件だ。

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興味を惹かれたのは、野党「国民の力」の院内代表が「事実であれば、親日派よりも酷い」と述べたことや、金元雄会長が歴代の保守政権を「親日内閣」や「反民族政権」と批判して来たこと、そして光復会なる「日本からの独立運動に関わった運動家やその子孫や遺族からなる団体」が健在なことだ。

つまりは、文在寅の反日政権と敵対する最大野党の大統領候補尹錫悦が「就任後すぐに日韓改善に着手」すると表明しようとも、所属する「国民の力」は反日ということだし、またほとんど徒労だった独立運動に関わった運動家の後裔が未だに韓国社会で幅を利かせているということか。

光復会と金会長の過去記事を繰ってみると、面白い2本の記事があった。一つは20年8月17日の『東亜日報』の「光復会の歴史と伝統に泥を塗った金元雄氏」との見出し記事。韓国の「光復節」は日本がポツダム宣言を受諾した8月15日だから、記事はその75周年式典での話だ。

同記事は、金会長の「大韓民国は民族反逆者を清算できない唯一の国」、「李承晩は反民族行為特別調査委員会を暴力的に解体し、親日派と結託した」との主張を、「故意に論議を呼ぶことを決意したかのように偏向的な言葉で溢れた」演説だと批判している。

更に「独立有功者とその子孫が集まった光復会は、韓国の独立運動と正統性を象徴する報勲団体として、決して政治的な団体になってはならない」とし、「表皮的で扇動的な論理で分裂を煽る金氏が果たして代表としての資格があるのか」と続く。そこへ今回の横領疑惑と来れば、金会長の酷さは記事どころではないようだ。

他の一本も『東亜日報』の21年4月10日の記事で、「『大韓民国臨時政府』が設立されて102周年を迎え、日本による植民地支配期の独立運動で使われた4つの太極旗が公開される」ことを、運動に使われた南相洛刺繡太極旗(19年)、臨時議政院太極旗(23年)、金九署名太極旗(41年)、光復軍署名太極旗(45年)の写真と共に報じている。

韓国報勲処は公開の狙いを「臨時政府が独立に向けた国民の熱望で樹立されたことを表現する」ためとしている。「大韓民国臨時政府」は日韓併合10年目の19年3月1日に起きた「三・一独立運動」の翌月11日、上海に集まった独立運動家によって作られた亡命政権で、「上海臨時政府」と通称された。

公開式典には、独立有功者や遺族、政府要人、各界代表ら90人余りが参加予定で、(臨時政府の国務総理や大統領を歴任した)李東寧の孫、(臨時政府秘書長だった)車利錫の子息、(天長節事件を起こした)尹奉吉の孫、(臨時政府最後の大統領)金九の曽孫ら、独立有功者の子孫が参加するともある。

上海臨時政府

筆者は本欄で臨時政府に数回触れ、「韓国は国家としての『正統性』に関して北朝鮮に『引け目』を感じているといわれる。それは金日成が率いた北朝鮮が曲がりなりにも日本と戦ったのに対して、李承晩の韓国は、三・一運動は総督府に内乱として即座に鎮圧され、上海臨時政府も国民党政府の庇護の下で旗揚げを宣言したに過ぎないことに起因しよう」とか、「簡単にいえば、上海臨時政府の初代大統領李承晩が25年に失脚後に後継した金九ら(当時は重慶)は、帰国後、米ソの両軍政から相手にされなかった上、彼らの帰国を待望していた南北の民族主義右派の重鎮二人のうち、南の宋鎮禹(東亜日報社長)は金九らの無能を見限り、離れていった」などと書いた

そこで本稿では、金九の自叙伝『白凡逸志』(東洋文庫)が臨時政府をどう書いているかを「三・一運動の上海」の章の要旨によって紹介しようと思う。以下の➡と(*)は筆者。

◇要旨

大韓民国元年(*1919年)頃は一致団結の精神で民族独立運動にのみ邁進していたが、当時の世界思潮の影響を受けるに連れ、仲間の間にも「封建」だとか、「無産革命」だとか言う者が現れ、単純だった運動の戦線にも思想の分裂、対立が生じるようになった。

臨時政府職員の間にも、公然とまた隠然と内部抗争が始まった。甚だしくは国務総理の李東輝(*1873年-1935年、後に臨時政府と絶縁)が共産革命を標榜し、一方の李承晩大統領(*1875年-1965年)はデモクラシーを主張して、対立と衝突が生じるという奇怪な現象が起こって来た(1920年頃)。

李東輝は韓享権をモスクワに派遣した。韓はレーニンから資金はいくら必要か?と聞かれ出まかせに二百万ルーブルというと、レーニンは「日本に対するのにそればかりで足りるか?」と笑った。韓は本国と米国の同胞が出すので当面は十分だと釈明し、レーニンは「自分の民族のことは自分でするのが当然」といいつつ支出を命じた。

知らせを受けた李東輝は、密かに腹心の国務院秘書長金立をシベリアまで迎えにやり、金を自分の懐に入れようとした。が、下心がある金立は家族のために土地を買い、上海でも隠れて広東女性を妾にし、豪勢な享楽生活を始めた。後に金立は暗殺され、人々はこれを痛快事と許した。

韓享権の赤い金によって上海で開催された国民大会は「ごた混ぜ会」で、日朝中露など各地から二百余名の様々な名の団体代表が参集したが、呂運享が頭目の創造派と李東輝の上海派という二つの共産党派が、民族主義者の他の代表を互いに引き入れたり追い出したりした。

創造派は「現政府を解消して新たに政府を組織せよ」という論、上海派は「現政府をそのままにして、改造だけしよう」という論を主張した。両派は結局歩み寄れず、国民代表は分裂した。創造派は「韓国政府」(金奎植首班)を創りロシアに売り込んだがモスクワに相手にされず、潰れてしまった。

共産党の両派の争いに独立運動者らが巻き込まれ、創造だの改造だのという言語謀略に幻惑されて時局が混乱したので、内務局長金九は国民代表に解散を命じた(1923年)。以降、臨時政府とロシアとの外交関係は絶える。

そして生まれたのが純然たる民族主義者の団体韓国独立党(1930年)。中心になったのは李東寧、安昌浩、李裕弼、車利錫、宋秉祚そして金九(1876年-1949年)らだった。共産主義者らは民族主義者の団結によって上海から南北満洲に逃げた。

当時は冷淡な国際世論と日本の圧迫で民族独立の思想が減退し、共産主義者の撹乱もあって民族戦線は分裂から混乱、そして潰滅へ転げ落ちてゆく一方だった。満洲の張作霖も日本の奸計に乗せられて治下の独立運動家を日本に引き渡すようになり、中国人も韓国人の首を刎ねて倭(日本)の領事館に行き、三円から十円の賞金を受け取るという状況が生じた。

ついには同胞の中にも独立軍の所在を密告する者が現れた。この点では、独立運動者らが統一なく四分五裂し、財物その他の面で同胞に迷惑を掛けた責任もなくはない。そこへ倭が「満洲国」を作ったので、独立運動最大の根拠地というべき満洲での活動はほとんど不可能になった。

紙幅が尽きたので、上海臨時政府の状況や桜田門事件のことは中編で。

中編につづく