井原西鶴の「武家義理物語」の話である。川に小銭を落とした青砥藤綱は、そのまま捨て置けば世の損失だとして、多くの人足に大金を与えて探し出させる。人足の一人は自分の小銭を偽って差し出したが、別の人足は不正を暴く。藤綱は、不正を働いた人足を裸にして、97日間かけて、小銭を探し出させる。不正を暴いた人足は、実は、事情により身をやつした武士であったことが知れて、再び武士に取り上げられる。
町人であった西鶴は、江戸時代の武士を頂点にした身分制秩序に強く拘束されていたのであって、同じ町人身分ものに課された無益な97日間の苦役に批判的であるよりも、逆に、武士の支配を肯定したうえで、その価値観の強制としての懲罰的苦役の賦課に賛同する姿勢を示している。そこに江戸時代の町人文化の限界があったわけである。
武士階級の身分制支配を実質的に支えたのは、いうまでもなく、武力である。武力を背景にした安寧秩序の維持という武士固有の社会的使命が支配を正当化する論理だったのである。これは、絶えざる争乱を収束させて成立した江戸幕府の初期においては、国民の利益、安全という経済的利益だったといえる。
しかし、西鶴の時代ともなれば、世は平和となり、武士支配を国民経済の利益から正当化することは困難だったのである。むしろ、勃興する商業資本の成長のために、武士支配の秩序は桎梏と化していたわけだ。この矛盾を背景にしてこそ、藤綱を欺いた悧巧な人足の意味がみえてくる。そこには、支配を実質的に内部から突き崩していく利発な創造があったのである。
旧秩序の支配者である武士からみたとき不正であったものは、新秩序の担い手からみたときは、利発、即ち創造であり、革新だったのである。藤綱を欺いた人足の不正は、武士の立場からみた不正であって、人足の立場からは利発である。この価値観の差こそ、決定的に重要な論点である。
不正には、創造と革新につながる利発的な正しい不正と、単に不正にすぎない不正とがある。働き方改革の本質は、組織の所属員のなかに、正しい不正が奨励される環境を整備し、不正な不正を見分ける感性を醸成することなのである。
森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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