イギリスの事例から考える日本語の未来

谷本 真由美

外国人労働者先進国のイギリスでは、第二次世界大戦終了後に、成人の男子労働者が不足し、カリブ海のアフリカ系の人々や、パキスタン、インド、バングラデシュといった南アジア各国から数多くの外国人労働者を導入してきた。

そして2000年以後はEUの医療と労働の自由により今度は東欧の国々を中心に、欧州の周辺国から大量の人々がイギリスにやってきた。

日本ではイギリスと言うとなぜか地方の大邸宅や、大昔の探偵ドラマばかりが放送されるので勘違いしている人が多いのだが、 現在のイギリスというのは日本人が想像できないほど外国人が多く、都市部の場合は通りを歩いている白人のイギリス人というのはほとんどいなかったりするのだ。

学校に至っては都市部の場合生徒の98%が外国人や移民の子孫でイングランド系白人がほぼゼロという学校も珍しくはない。

そのような状況なのであるが、ここ数十年のイギリスで起こった変化の一つにその言語の変容というものがある。外国人が大量に移民してくることでイギリス国内で使われる英語というのにも大きな変化が訪れているのだ。

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例えばイギリス人というのは日本で例えると京都人のような表現をする人々で、遠回しに言うことを好みはっきりと物を言わない。

しかしどちらかというと 単刀直入な表現を好み、下町文化的なノリがある南アジアの表現とはかなり違う。やはり島国なので、日本の伝統がある地域に似た「含みのある表現」が得意なのだ。

さらに母語である言葉が単純な文法だったりする国とも相性が悪い。例えばナイジェリアの部族語は日本語のように「ね〜」「あ〜」といった感じの返事をトーンを変えることで何種類もの意味をもたせることができる。これも長々と向上を述べるイギリス的な英語表現とはかなり相性が悪い。

この様に言語体系が全く異なる地域出身の人だと、イギリス的な表現は全く通じないし彼らも理解ができない。皮肉など言われたら、それを真に受けて傷つく人も少なくない。

都市部の場合は町内に住んでいる人の大半や、学校の生徒の大半、また職場によっては従業員の大半が外国人や移民の二世や三世というところが珍しくない。

もともと地元出身のイギリス人がほとんどいないので、そのコミュニティで使われる言葉というのが、移民の人々の使う母語や英語が混ざったものになっている。

周りに外国人しかいないので、イギリス的な表現の英語というものが普段から使われていないのである。

たとえイギリス生まれであっても、移民だと親類や知り合いと固まって同じ地域に住んで、同じような学校に通うので、周りは移民だらけになってしまう。

そうするとテレビや学校でイギリスの英語を身に付けるものの、イギリス的な表現や語彙というものを普段使わないことになる。

であるから、非常に驚かされるのは現在のイギリスの外国人が多い都市部だと、地方のイギリス人が使う英語とは表現がかなり違うことが多い。

イギリス的な遠回しの表現や皮肉があまり通用しないのである。探偵ドラマに出てくるような、いわゆるイギリス風の英語を使うのは今では地方の高齢者になってしまっている。

私のイギリス人の夫は大学の研究者であるが、彼は北部の炭鉱地帯の出身である。

ところが南部の都市部に引っ越して大変驚いたのが、北部や地方都市の イングランド人だらけの地域では普通に使うような皮肉っぽい表現や冗談が、外国人だらけの地域では全く通じず、意味を理解してもらえないということであった。

そういった外国人だらけの地域にいる人々は一応イギリス生まれで国籍もイギリス、英語が母語でありイギリス人なのではあるが、イギリス風の言い回しや諺、遠回しの表現が全く通用しないのである。

このような地域では表現の仕方や言い回しをかなり単純化しなければならない。さらに若者の場合はイギリス人であってもアメリカのテレビの影響もあって益々単純な英語を使うようになっている。

つまり外国人が大量に入ることで言葉のあり方や表現方法までもかなり変わってきてしまっているのである。

これは日本でも今後起こりうることであろう。

外から人が入ってくれば日本人同士であれば伝わるような「阿吽の呼吸」は通用しなくなるし、複雑な日本語の表現も通じなくなる。自分の職場や学校に外国人がいることが前提となれば、おのずと普段から使う言葉もどんどん単純化されていくのである。単純化しなければ社会が回らないのだから、これは非常に合理的な変化ということになる。