日本をダメにした宏池会の二人の総理

岸田政権は世論におもねすぎる政治はさし当たっての支持率は確保出来ても歴史法廷で糾弾されかねない。「「宏池会」の伝統を曲解している岸田政権」と題する記事では、近著「日本の総理大臣大全 伊藤博文から岸田文雄まで101代で学ぶ近現代史」(プレジデント社)」の内容を使いながら、池田勇人や大平正芳はむしろ大衆の嫌い政策を勇気をもって断交する政権だったと書いた。

今回はその続編で、こんどは、あまり高く評価されていない宏池会の二人の総理のお話をしたい。鈴木善幸と宮澤喜一である。

左:鈴木善幸元首相 右:宮澤喜一元首相
出典:首相官邸HP

鈴木善幸内閣

大平の死を受けて、その刎頸の友だった伊東正義官房長官が代理つとめ、ベネチア・サミットには、非議員の大来佐武郎外相が出席した。1980年6月の衆参同日選挙では、中曽根、宮沢、河本のいずれかが後継と噂され、野党は霞んでしまい自民党が圧勝した。

しかし、いずれも田中角栄から忌避され、大平派の派閥No.2だった鈴木善幸が浮上した、まったく田中の都合だけの首相選びであった。三角大福の時代までは、総理になるのはしかるべき見識と経歴の人だけだった。ところが、この鈴木善幸からあとは、誰にでもなれるポストになってしまった。「資質」が問われない時代の始まりである。

鈴木は岩手県下閉伊郡の網元の家に生まれ、農林省水産講習所(東京海洋大学)で学び、社会党の代議士だったが、地元の要望で鞍替えした。官房長官、厚生相などを歴任し、総務会長を10期もつとめた党内調整のプロで、「善幸」でなく「ズル幸」といわれた。しかし、経済閣僚や幹事長、政調会長の経験はなかった。

「和の政治」を標榜したが、それは、大衆に媚びることだった。一般消費税論議に蓋をし、グリーンカードは凍結し、中曽根康弘を行政管理庁長官に起用し、第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ「増税なき財政再建」でめくらましした。

この「増税なき財政再建」こそが、この国の転落の始まりだと思う。行政改革は日常的に必要だし、ときには大掃除も必要だが、税制が行き詰まっているときに、改革を潰してその場しのぎの対処法として行政改革を位置づけることは間違いだった。

新税の導入とワンセットで行政改革をするのは悪くないが、それを先行条件にすると、「国民がこれで十分と納得する」ことなど永久にありえないのである。また、国家、なかんずく民主主義国家においては、国民は国家の主人であって、消費者ではない。ところが、日本では政治家は有権者に「お願い」ばかりする。これはおかしいのだ。

いいかえれば、「行政改革」といえば聞こえはよいが、江戸時代の諸改革がそうであったように、「改革」は根本的な「変革」回避のための糊塗策と同義であって、むしろ、事態をより深刻化するという意味でマイナスの方が多いのである。

鈴木は、「日米同盟」という言葉がレーガンとの共同声明に盛り込まれたにもかかわらず、帰国して「軍事的な意味合いを持つものではない」と無理な理屈を言ったので、伊東外相が抗議し辞任した。国際経験がなく元社会党らしい、迷走だった。

中国や韓国の要求を容れ、歴史教科書の近現代史で彼らの要求に配慮する「近隣国条項」を入れたが、このようなことは少なくとも約束するようなことではなく悔いを残した。

宮沢喜一内閣

海部俊樹首相が退陣に追い込まれたころ、小沢一郎は東京都知事選で磯村尚徳を推して現職の鈴木俊一に敗れた責任をとって自民党幹事長を辞して無役だった。だが、小沢待望論もあったので、竹下派の幹部は小沢を後継にしようとしたが受けなかった。

竹下派としての態度を決めるために、小沢が宮沢喜一、渡辺美智男、三塚博の三人の後継候補を呼びつけて「面接」したのち、小選挙区制など政治改革と、PKO(国際連合平和維持活動)など国際貢献の具体化を条件に世論が支持する宮沢支持を決めた。

翌年には、国際連合平和協力法案に代わるPKO法案を社会党などの牛歩戦術などを駆使した猛烈な抵抗に屈せず成立させ、その直後の参議院選挙で圧勝した。

中国には、1992年に天皇訪中を実現し、天安門事件以来の世界的な制裁解除を主導した。日韓関係では盧泰愚大統領のソフト路線もあって友好ムードが高まり、宮沢政権は過去清算のために大サービスをした。しかし、韓国を図に乗らせて悪い結果になった。とくに慰安婦についての「河野談話」は、ヒアリングもしないまま虚偽の証言をもとに強制連行に近いことがあったようなニュアンスにして厄介な負の遺産となった。

バブルの崩壊にあって、海部内閣の末期に行われた不動産融資への総量規制が悪かったという人がいるが、それは勘違いである。そもそもバブルを維持することなど出来ない。バブルを生じさせたことが悪いので崩壊は不可避だった。しかも、総量規制を導入しても不動産価格はしばらく下がらず、むしろ傷口をますます大きくしたのである。

正しい処方箋は、早く公的資金を導入して破綻処理をし、内需中心の経済成長施策をとることだった。宮沢はそのことを分かっていたのだが、公的資金の投入は、国民からの反発も強く、銀行も厳しい条件を押しつけられるのを嫌い、産業界は金融救済を不公平だったと反対した。情緒的なマスコミや政治家が悪いのであるが、宮沢も生ぬるかった。「生活大国構想」といったものの発想も悪くなかったが実を結ばなかった。

宮沢の父である宮沢裕は、広島県福山近郊の農家出身で苦学して山下汽船で働いていたが、田中義一内閣で鉄道相だった小川平吉の娘婿となった。代議士となり、長男の喜一は武蔵高校の付属小学校からエスカレーターで高校まで学び、東京帝国大学法学部時代には日米学生会議で訪米し、大蔵省に入りして池田勇人の秘書官となった。

池田の肝いりで参議院議員となり、経済企画庁長官となったのち、衆議院に鞍替え、通産相、外相、官房長官、蔵相、副首相を歴任した。インテリぶりと語学力には定評があったが、初対面の人にすぐ学歴を聞くとか、酒がゆえの失言も多かった。