プーチンのいう「NATO東方不拡大」の「密約」を考える(後編)

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ロシア側の主張に対し、ブッシュ父からオバマに至る米国歴代政府はドイツ統一交渉での米ソ間の「合意」や「密約」を否定はしたが、実証的な裏付けを提示している訳ではなかった。

この事情から初期は米国の立場に理解を示す論客が牽引し、その一人M.クラマーは「密約」に関するロシアの主張を検討し「水面下の合意や密約の類はそもそも成立していなかった」との主張を展開した。

クラマーの主張を継承し、より豊富な史料を駆使して実証を試みたM.E.サロッテは、本稿前編で述べた論点a. b. c. の解釈を次のようにまとめた。

  1. 否。ソ連側の要請を反映して、米国は1990年7月のNATOロンドン・サミットで対ソ敵視をやめることを宣言させた。しかし、米国がソ連に約束したことはそこまでであった。
  2. 否。1990年2月に米国と西独はソ連のゴルバチョフ書記長に対してNATOの東方拡大を否定する発言を行った。しかし、ソ連はこれらの発言の明文化を求めなかった。また「最終地位規定条約」にはNATO 拡大の可能性が残された。よって、米ソ・ 独ソ間に「密約」は成立していない。
  3. 事実上「買収」した。ただし、それは米国ではなく、西独によってなされた。

サロッテの議論の特徴は、「共同声明や文書によってのみ国家間の合意が成立することを前提」にしている点にある。よってドイツ統一にまつわる米ソ・独ソ合意は「最終地位規定条約」に書かれていることがすべてであるとの姿勢だ。

これに対しK.シュポーアは主にドイツの史料を用いて検討を加えている。彼は、西独とソ連との交渉内容を検討すると「東独部分をNATOの管轄下に置かないことなどについては、その約束が成立したとソ連側が受けとめても止むを得なかった」とした。上述c. についても、対ソ援助に関する交渉過程をより緻密に分析しており、先行研究よりも金額などについてより踏み込んでいる。

また交渉当時の米国駐ソ連大使J.マトロックは、やや婉曲な表現ではあるものの、次の様にサロッテの論理展開に疑念を差し挟んでいる。

サロッテが上述a. b. の問いに「否」と解釈することに、交渉に関わった当事者の一人として同意するが、 仮に米ソが「密約」を書面で交わしていたとしても、それは米ソ間の問題で、主権を完全に回復した統一ドイツやヨーロッパの将来に対して何の法的拘束力も持たなかったはずである。

今日の欧州の安全保障環境が不安定化している要因は、ドイツ統一交渉での「密約」の有無に求められるのではなく、むしろ90年代前半の米国の対ロ・対欧政策に要因があった。米国は崩壊後のロシアと連携を深化させるべきところ、本来必要ないNATO東方拡大を実行した。この米国の判断と行動が問題なのである。

爾後の米国の行動を難じる辺りは、前編で紹介したN・グリビンスキーが「ロシアがリベラルな民主主義の路線から離れれば離れるほど、ロシアにとって『NATOは敵』というイメージが強まる」と、後のロシアの姿勢を問題視していることとの対照で、筆者にはとても興味深い。

次にこれも「共同声明や文書の形でなければ国家間の合意が成立しない」とするサロッテの前提を批判するJ.R.I.シフリンソンは「そもそも『密約』の『密』たる所以は、約束が非公開で交わされていることにあり、合意形式すら当事者間のみの了解事項とされている可能性もある」とする。

それは文書や共同声明の形式をとるとは限らない。口頭での了解であっても約束を成立させ得る。この立場に立てばドイツ統一に関する合意内容は単に「最終地位規定条約」に限られるのではなく、幾度も行われた交渉の経緯全体、彼の論文のいう「合意の構造」、によって構成されると解釈する。

この辺りで筆者は、ラムザイヤー教授の「慰安婦は年季奉公契約の売春婦だった」との主張を、同じハーバード大のエッカート教授らが「契約書が存在しない」として批判したのを想起した。契約書が存在せずとも当時の社会状況や酌婦などの契約形態から類推すれば充分妥当する、という訳だ。

シフリンソンは90年2月の米ソ・独ソ交渉での発言内容を極めて詳細に実証した。その結果、ソ連が、米独はNATOの件について意見を調整済であり、また、米国政府内(国務省とNSC)も一枚岩であると受け止めた可能性が高いことを指摘している。

彼はその証拠として、ベーカー国務長官のみならずゲーツ国家安保問題担当大統領副補佐官も90年2月上旬に訪ソし、9日にクリュチコフKGB議長と会談して、「(統一)ドイツはNATOに帰属するが、東独(の領域)には(NATOの)軍事的プレゼンスを拡大しない」と発言したことを指摘する。

このゲーツ発言は2月9日のベーカー国務長官発言や、2月10日のコール首相発言とほぼ同じ内容だ。つまり、国務長官、NSC副補佐官、そして西ドイツ首相が、揃って同一趣旨の発言をソ連側に対して行ったことになる。

またシフリンソンは、90年 2月にとどまらず同年の春から夏にかけても「NATOを変容させる」という意思表示を米国側が行っていたことを指摘している。

シフリンソン以前の研究の多くは、NATO拡大や変容の問題が統一交渉の主題だった時期を90年2月とし、後の時期の主題が対ソ経済支援だったとする。そしてこの対ソ経済支援が決め手となって、ソ連は90年7月の独ソ首脳会議で統一ドイツNATO残留を事実上容認したと解釈してきた。

が、シフリンソンは、対ソ経済支援だけでなく、 NATOの変容も提示されたがゆえに、ソ連は統一ドイツのNATO帰属を容認したと解釈する。この実証のため彼は、90年の春から夏にかけて米、西独、ソ連の間で交渉されていた安全保障問題に注目した。

交渉の争点は、90年2月の米ソ・ 独ソ会議でのベーカーとコールの発言「NATOを東方拡大せず」を如何に具体化させるか、つまりNATOの役割を制限する場合、その代わりにどのような安全保障秩序を構築するのかについてだった。まさにその後の「NATO」について議論されていた訳だ。

吉留論文は91千字余りの極めて克明なもので、脚注も330件を超える。本稿は紙幅の関係で脚注を省いたが、前編に張ったリンクで論文全文を読むことが出来るので、読者諸兄姉にはぜひ一度に当たってみられたらと思う。

最後に吉留論文「下」にある印象的なことを書いて稿を結ぶ。「下」は米国内の国務省(ベーカー)とNSC(スコウクロフト)の思惑の違いとその狭間で揺れ動くブッシュ父、そして主役のゴルバチョフとコール、脇役だがドイツ統一に批判的なサッチャーと肯定的なミッテランなどの主張や立場の違いが興味深い。

そんな中、詰めのマルタ会議でベーカーに(新しい関係を規定する価値とは)「民主主義的な価値観であるか」と問われたゴルバチョフが「Yes」と答えた。吉留は、ベーカーが回顧録にソ連から民主主義的価値観を認める言質を取って米ソ関係を質的に変化させたとの手柄話を書くが、「重要な意義はソ連側が自発的に東ヨーロッパ諸国の(民族)『自決権』を認めたことにある」と喝破する。

筆者もまったく同感だ。が、そうなるとドンバス「両国」が14年に住民投票し、ロシア側に付くことを選んだのならその「民族自決権」も尊重されるべきではないか、との見方が成り立ち得まいか。賢いプーチンはその辺り抜け目なく、ドンバス「両国」の「併合」でなく「国家承認」とした。

そこに平和維持軍の形でロシアが派兵すれば、領土問題を抱えることになるウクライナはNATOに加盟できない。同様の手法で独立して08年にロシアが承認した南オセチアやアブハジアを抱える旧ソ連邦のジョージアも、同様の理由でNATOに加入できない。プーチンはそこを狙っているのだろう。

最後に台湾に目を転ずれば、仮に台湾人が独立を望み、西側諸国の「台湾共和国」承認に関わらず北京が侵攻したらどうなのだろうか、との問題に行き当たる。チベットや内モンゴルや新疆ウイグルや香港の様になってしまえば「民族自決」など及びもつかない。が、台湾は間に合うのだ。

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