ロシアの「隣国」侵略に想う:地獄への道は善意で敷きつめられている

清水 隆司

奇妙な話だが、戦前戦中この国を破滅に導いたウルトラ民族主義者たちと戦後の左翼は、右・左の違いを除くと、その思考パターンが驚くほど酷似している。

戦前・戦中の右翼:「大和魂があれば、国力で圧倒的に上まわるアメリカと戦争しても勝てる!」
戦後の左翼:「麗しい憲法を抱きしめていれば、空から平和が降ってくる!」

両者に共通しているのはリアリティーの欠如。現実の課題と真摯に向き合い、合理的に対処しようとする態度が端から備わっていない、という点で完全に一致している。自己完結的、あるいは、自己陶酔的、といってもいいだろうか。

他国の話ではないので、つまりこうした思考パターンは、この国の一定数の人びとがつねに罹患し続けている「国民病」なのかもしれない。だが、そんな解釈に納得している場合ではない。日本の地政学的リスクはかつてないほど高まっているからだ。

池田信夫氏のこの記事「憲法9条は「他国への侵略を防ぐ条項」か」を読んだ。池田氏の指摘通り9条は、日本という野蛮国を縛るのが目的で、自国を護るための条文ではない。いや、9条だけではない。日本国憲法はそもそも国を自主的に防衛する前提で書かれていないのだ。憲法の前文にはこうある。

日本国民は、……(中略)……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

ひとつの国家がその国の国民に対して最優先で保証しなければならない権利は、《生命権》である、と断言しても、異を唱える人はほぼいないだろう。しかし、実際には、この国の憲法は自国民の生命権までも他国の意向に委ねているのだ。

「異常だ」と考えるリアリストを、左翼の人びとは、きっと頭の気の毒な「ネトウヨ」と見なして、嘲笑するのだろう。嘲笑してくれてかまわない。かまわないから、リアリストたちが安全保障に関して真剣に議論する機会まで奪おうとするのだけは、どうかやめてほしい。

左翼の人びとは例外なく自分らの立ち位置をリベラルと確信している。だが、彼らの多くはその言動におよそリベラルと称するに相応しくない攻撃性と排他性を帯びている。リベラルについては以前書いた記事「暴走するポリコレ:森氏辞任を受けての述懐」でこう定義した。

リベラルであるということは敵と生きる覚悟を持つことだ。たとえ正反対の意見を持つ相手にでもつねに自由で公正な言論の場を提供し、啓蒙はしても、糾弾はしない。論破はしても、圧殺はしないのだ。

一方、この国の自称リベラルの場合、そうはならない。安全保障に関する意見の中に「改憲」「集団的自衛権」「核抑止力」といったワードを見つけると、たちまち攻撃のスイッチが入る。SNS空間はそうした人びとのリアリストに対する誹謗中傷で溢れかえっている。

気位が高く、自分らの「正しさ」を疑わないから、意に反する立場の人を躊躇なく見くだすのも彼らの特徴だ。結果、同質的な人間だけで寄りあつまって、お互いが披瀝する言説に頷きあっている。自分らの独り言を聞きたい——そんなところだろうか。

改めて断じたい。この国の左翼人の大半は、リベラルなどではない、と。

「護憲」「反戦」——こうした理念も、もともとオールド左翼——アナクロ社会主義者たちが不純な動機でひねり出した方便だった。暴力革命・社会主義国家ソ連による軍事侵攻——それらを実現するために、彼らはこの国に真っ当な防衛力を準備してほしくなかったのだ。

アメリカ軍の占領統治下でアメリカから半ば強要された憲法を護れ、と叫びつつ、外交的には反米という支離滅裂を許容できる人びとの間で「護憲」「反戦」は、脈々と受けつがれ、信じられてきた。あたかも《信仰》のように。

確かに今日まで平和が持続できたのは、理念の正しさゆえ、と信じこむのに70年強は充分過ぎる時間だった、といえるだろう。けれども、平和とはあくまで多国家間の或る安定した状態のことであり、国際関係が変化すれば、日本が平和でいられる条件も、当然変化する。ところが、これが左翼の皆さんには通じないのだ。

思えば、冷戦時代、外交安全保障には魔法のおまじないがあった——即ち「アメリカを支持する」。イデオロギーの違いにより東西に二分された安定的な世界構造と世界最強の軍事大国アメリカと同盟関係にあったことが、反米左翼の法螺話に現実味を与える皮肉な結果につながってしまった、という訳だ。

左翼の皆さんにはぜひとも教えを請いたい。なぜ改憲が必要と考える人は、平和を望んでいない人、と決めつけられるのか。集団的自衛権や核抑止力を拒絶し続けることが、この国の平和を維持することにつながると、どういう根拠に基づいて結論づけているのか。批判するつもりはない。自分にない発想があるなら、むしろ進んで触れてみたい。ロジカルに説得してほしいだけだ。

2015年に成立した安保法制を「戦争法」と決めつけ、反対の意思を表明するため、国会前に多数の人びとが集結した「安保法制反対デモ」を覚えている方も多いだろう。もしロシアによる軍事侵攻があのデモのさ中に起こっていたとしたら、あの場に集った人びとはいったいどんな顔をしたのだろう。もっと国際社会の現実に目を向けるべきだった、と赤面しただろうか。残念だが、とてもそうは思えない。

今、ウクライナの人びとは老若男女を問わず国を護るための苛烈な戦いに身を投じている。片や祖国防衛の悲壮な決意を胸に銃を手にするウクライナの人びと。片や安保法制反対デモで躍動する左翼の皆さん。双方の写真を並べて見たら、もはやどんな理屈も必要ないだろう。

《祖国》という言葉を嫌悪する人びとによって長くこの国の平和は語られてきた。祖国防衛のために武器を手に取るウクライナの人びとの姿は、彼らにとって最も目にしたくない光景だったかもしれない。「日本さえ加害国にならなければ、世界は平和」——日本国憲法由来の無邪気な幻想を、国際社会の現実は容赦なく踏みしだいた。そして、見せつけられた時に戦わなければ勝ちとれない平和の過酷さ。目を背けてやり過ごすことはもう許されないのだ。

「護憲」「反戦」を唱える人の多くが、妙な「活動家」ではなく、善意の人びとだ、と知っている。だからこそ伝えたい。「善意はかならず報われる」——その決めつけ自体がそれを信じる人びとの思いあがりなのだ、と。

哲学者ニーチェのこんな箴言を引いてみる。

悪意のように見える不遜な善意もある (『善悪の彼岸』)

サブタイトルは欧州の古い格言。自分の善意の気高さにうち震え地獄へゆくのも厭わない善意の殉教者は、好きにすれば良い。しかし、国家はそうした人びとだけのものではない。国際社会の現実と向きあい上手に舵を取る術を模索するリアリストたちまでも地獄に引きずってゆく権利は、誰にもないのだ。

憲法9条に従い侵略国との戦争を放棄することは可能だろう。ウクライナ国民と同じことをしなければ良いのだから。だが、国を譲りわたす相手が日本国憲法の三原則「基本的人権の尊重」「国民主権主義」「平和主義」など一顧だにしない権威主義国家だったとしたら、その後に現出する国の有り様は、護憲派の自己矛盾を露呈させるのではないか。戦うウクライナの人びとを揶揄する《市民》がこの国に実在する中、最後にこれだけは書きそえておく。

清水 隆司 
大学卒業後、フリーターを経て、フリーライター。政治・経済などを取材。