キエフとともにこれから焦点になるのが、「黒海の真珠」といわれた港町オデッサの攻防戦のようだ。もともとウクライナとは歴史的に関係なく、エカテリーナ二世が創建してギリシャ風の名前を付けた。同様の命名は、クリミア半島の軍港セバストポリでもされている。建築も好んでギリシャ風のものが多いので独特の雰囲気がある。
エカテリーナ二世は、コンスタンチノープルを手に入れてビザンツ帝国を再建する夢を持ち、孫にコンスタンチンという名を付けたほどだが、その路線の延長だ。
また、映画史上最高傑作のひとつと言われるセルゲイ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」の舞台でもある。「オデッサの階段」と呼ばれる市内の名所で撮影された、市民虐殺の場面はモンタージュ理論の金字塔である。
このポチョムキンというのは、エカテリーナ二世の愛人でもあった将軍で、黒海沿岸地方をクリミア汗国やオスマントルコからロシアに併合するために功績があった人物だ(墓所はヘルソン)。
この階段のてっぺんの広場には、アレクサンドル一世のもとでノヴォロシア(マリウプルなどウクライナ東部、クリミア半島からオデッサ付近を含む)総督をつとめたフランス人アルマン・ジャン・デュ・プレシ(リシュリュー公爵)の銅像がある。
テレビではこの銅像を土嚢を積んで守ろうとする映像が流れていたが、帝政ロシアの総督の銅像をロシアの攻撃から守ろうというのだから皮肉。
このアルマン・ジャン・デュ・プレシ(リシュリュー公爵)は、宰相リシュリュー枢機卿の大甥が公爵となり、その曾孫である。フランス革命時は内廷侍従長だったが、ロシアに亡命してアレクサンドル一世に仕えた。王政復古ののちは、フランスに帰り首相を二度務めた。
この広場のさらに先に、エカテリーナ広場があり、エカテリーナ二世の銅像がある。堂々とした美しい像で、下段にはポチョムキンなど何人かの廷臣の像が配される。
オデッサの都市は、1794年に現在のウクライナ南西部が露土戦争の結果、オスマントルコ領からロシア領になると、当時の君主エカテリーナ2世の布告で建設が始まったのであって、純粋にロシアによって建設された町であって、ウクライナとは歴史的なつながりはまったくないが、ロシア革命後にソ連によってウクライナ共和国に入れられた。最近では、ウクライナ国粋主義者による像撤去に向けたデモも行われたという。
日本では、横浜の姉妹都市であり、「機動戦士ガンダム」の舞台としても知られている。
比較的ロシア系が強い都市でもあり、2014年のオレンジ革命の際には、親露派のデモ隊がビルに追い込まれたところに極右過激派により火炎瓶が投げ込まれ消火活動もほとんど行われず、40人以上の犠牲者が出た事件も起きている。
このあたりはロシアがウクライナがネオ・ナチ国家だというプロパガンダに使っているのは誇張だが、事件の経緯そのものは当時から報道もされていたし事実である。
東京新聞が最近、「大半の住民が恐れるのは戦闘突入によって「親ロ」と「反ロ」に色分けされることだ。プーチン政権は「ロシア系住民の保護」を侵攻の大義名分にしており、住民同士の衝突が起きる可能性も高くなる。」
「オデッサでは14年5月、親欧米の政権支持者と親ロシア派の勢力が広場で衝突。親ロ派が逃げ込んだビルに火炎瓶が投げ込まれ、40人以上が犠牲になる悲劇が起きた。これ以降「住民が政治の話題を避けるようになった」という」と報じているとおりで、民族派政権のもとで潜んでいた親露派が息を吹き返さないとも限らないのである。」と報じた。
そんなこともあるし、もともと、ソ連最大クラスの港湾だけに、オデッサはできるだけ無傷で取りたいというのも、オデッサへの攻撃を遅らせている理由だろうが、どうなることか。
余談だが、オデッサはユダヤ人が多く住み、トロッキーはヘルソン出身のユダヤ人だが、母親がオデッサ出身であり、自身もオデッサで学んだ。ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフもナタン・ミルシュタイン、ピアニストのエミール・ギレリスは、オデッサ生まれのユダヤ人。
スヴャトスラフ・リヒテルは、オデッサ育ちで父はドイツ人、母はロシア人。スターリン時代にソ連外相だったアンドレイ・ヴィシンスキーはオデッサ生まれのポーランド人。
また、ウクライナの馬賊政権(ヘーチマン国家)の自治権を奪ったり、オデッサなど黒海沿岸を併合したエカテリーナ二世は、ドイツのメルケル前首相の尊敬する政治家で、彼女の執務机の上にはエカテリーナ二世の肖像画が飾られていたというのも皮肉なことだ。
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松田学さんとの対談「特番『八幡先生に訊く!ウクライナ情勢を”歴史歴経緯”から分析』」もご覧下さい。
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