ベトナム戦争は何だったのか? :ウクライナ戦争との対比で考える(金子 熊夫)

金子 熊夫

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外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

2月末から突然始まったロシアのウクライナ侵攻は1カ月を経過し、ついに本格的な戦争に発展しました。この先どう展開していくか予測困難ですが、プーチン大統領という特異な独裁者による狂気の沙汰としか言いようがありません。無実の一般市民が無差別攻撃にさらされ、犠牲となっているさまは見るに耐えず、ウクライナに一日も早く平和が戻るよう切に祈ります(この戦争については、後日改めて論ずることにします)。

さて、第二次世界大戦後の77年間で大小多数の戦争(武力衝突)が起こりましたが、その起源、動機や時代背景、開戦原因などは実に様々です。その中で日本に比較的近いアジアで起こった戦争として私たちの記憶に最も強く焼き付いているのはやはりベトナム戦争でしょう。

今回のウクライナ戦争とベトナム戦争とを比べると、いろいろな共通点や類似点が認められるものの、この二つの戦争は時代背景も国際政治環境も大きく異なり、むしろ相違点の方が多いと思います。

今回のウクライナ戦争は、今思えば予兆はいろいろありましたが、まさか本当に戦争になるとはおそらく誰も予想していなかったはずで、いわば、ある日突然起こってしまったような感じです。おそらくプーチン大統領は短期決戦を狙っていたのでしょう。

これに対しベトナム戦争は、少なくとも10年という長い時間をかけて徐々にエスカレートし、ついに大戦争になったこと、そして最後は、当時も今も世界最強の軍事大国であるはずの米国が負け、ベトナムが粘りに粘って勝利をつかんだということなどが重要な特徴だと言えます(ウクライナでも、今のところウクライナ軍や一般市民が善戦しており、ロシア軍は予想以上に苦戦している模様です)。

ところで、前回の本欄で触れた通り、この歴史的なベトナム戦争に、偶然私は巻き込まれ、危うく死にそうになったわけです。その実体験をこれから詳しくお話ししようと思いますが、その前に、まずこの戦争の歴史的背景ーつまり、米国はなぜこのような戦争をしなければならなかったのかーを簡単に振り返って整理しておきましょう。

第一次インドシナ戦争

第二次世界大戦が1945年8月に終わり、日本軍がベトナムから撤収した直後、ホー・チ・ミンはいち早く独立を宣言し、「ベトナム民主共和国」を樹立しましたが、宗主国のフランスは慌てて大急ぎでベトナムに戻り、以前のように植民地支配を復活させようとしました。その結果、ベトナム側で「抗仏戦争」と呼ばれる植民地打倒・民族解放戦争が開始。この戦争は、後の「抗米戦争」すなわちベトナム戦争との関連で第一次インドシナ戦争とも呼ばれますが、ほぼ10年続きます。この戦争の初期段階で、旧日本軍の残留兵がかなり多数参戦し、一定の貢献をしたことは前回触れた通りです。

ディエンビエンフーの戦いでフランス軍はベトミン軍に敗北(1954年)
出典:Wikipedia

この戦争が始まった直後、49年に中国で毛沢東の共産党が「中華人民共和国」を建国し、旧ソ連と共に、ホーの率いるベトミン軍の支援に乗り出したので、フランス軍は苦しい戦いを余儀なくされました。そして、フランス軍は次第に追い詰められ、ついに54年5月、ラオス国境近くのディエンビエンフーの戦いで劇的な敗北を喫し、降伏します。この戦争での戦死者はフランス側で約7.5万人、べトミン側で30万人に達したといわれます。

こうした戦況を受けて、同年4月からスイスのジュネーブで開催された国際会議で、インドシナ戦争の停戦問題が議論されました。会議には、米・英・仏・ソ連の4大国とインド、中華人民共和国などアジア諸国の合計18カ国が参加。本来なら戦争の当事者であるフランスとインドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)との直接交渉で決められるべき事柄が、大国主導の国際会議で議論されたところに、この時代の国際政治の勢力関係が現われています。

難航の末に締結された停戦協定(ジュネーブ協定)では、2年後の総選挙実施と引き換えに、南北ベトナムをほぼ二分する北緯17度線に、暫定軍事境界線が設定されることになりました。当時ベトナムでは、ベトナム民主共和国(べトミン)が全土の4分の3近くを支配していたので、彼らにとっては大きな譲歩でしたが、ソ連、中国による説得でやむなく妥協したものです。

米国の軍事介入の始まり

ところが、ジュネーブ会議前後から、フランスに代わって急に東南アジア問題に関与するようになった米国は、共産主義の拡大を食い止めるため、それまで海外で亡命生活を送っていたゴ・ディン・ジェム(反共主義者、カトリック教徒)を初代大統領に迎えてベトナム共和国(いわゆる南ベトナム)を樹立。ベトナムを「反共の砦(とりで)」としようとしたわけです。

ゴ政権は、ジュネーヴ協定で定められていた南北統一総選挙の実施を拒否し、国内の共産主義者を厳しく弾圧しはじめます。またこの時期、北ベトナムからはキリスト教徒や反共主義者が大挙して南ベトナムへ移動しました。こうして南北ベトナムの対決姿勢は一段と強まっていきます(ちなみに、この人々の多くは、75年にサイゴンが陥落する前に「ボートピープル」になって海外に逃れました)。

なお、ジュネーブ会議以後、米国でアイゼンハワー政権の国務長官を務めたダレスもまた強固な反共主義者で、共産主義のアジアでの拡大防止に奔走し、その外交は「ドミノ理論」として定着しました。つまり、ベトナムが赤化すれば、東南アジアの他の諸国も次々に赤化する恐れがあるから、なんとしてもベトナムを支えなければならないという理論です。時は正に米ソ冷戦時代のピークに差し掛かっていました。

こうした米国の動きに対抗して、北ベトナム側もホー・チ・ミンの強力なリーダーシップの下、中ソの支援を得て、また南ベトナムの民族解放戦線(別名「ベトコン」)と緊密に連携して、ゲリラ戦で対抗します。

ベトナム戦争(抗米戦争)の拡大

他方米国では、アイゼンワーの後を継いで1961年、若く野心的なケネディが大統領になり、一段と反共政策を進め、その一環としてベトナムへの関与を強めます。そして、軍事的支援を目的として、米軍部隊の派遣に踏み切ります。ケネディが就任演説で「国が諸君のために何をなし得るかを問うな。むしろ諸君が国ために何をなし得るかを問え」と訴えたのは有名で、この演説に鼓舞された多くの若いアメリカ人が外交官や軍人としてベトナムに送り込まれました。

南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾
出典:Wikipedia

米軍は最初は数百人規模で、主に南ベトナム軍の顧問団という形でしたが、戦線が拡大するにつれ徐々に増員され、数万人規模になり、最後は50万人を超えるまでになりました。

63年にケネディが暗殺されたあと、ジョンソンが大統領になると、戦線は一気に南ベトナム全土に拡大し、さらに65年からは、「北爆」と称して、ハノイなど北ベトナムの主要都市への空爆も激しくなっていきました。

さすがに核兵器は使われませんでしたが、ナパーム、クラスター爆弾のほか、枯葉剤なども大量に使用されました。これに憤慨した北ベトナムの正規軍は、17度線を越えて一気に南を攻略するだろう、そうなると南ベトナムはお仕舞いだという悲観的な観測がもっぱらでした。

戦火のサイゴンでの生活

私が1966年8月、ワシントンからの転勤で、南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チ・ミン市)の日本大使館へ赴任したのは、まさにそのような時期でした。ワシントンでは先輩や同僚と「水さかずき」で別れを告げ、途中で立ち寄った日本では、郷里(新城市)の家族たちも深刻な顔をしていました。

サイゴンの市内風景。「シクロ」が当時一番便利な交通手段だった
筆者撮影

ただ、実際にサイゴンに着いてみると「台風の目」のように、意外なほど平穏に見え、いささか拍子抜けしました。その頃には、すでにクーデターで暗殺されたゴ・ディン・ジェムに代わって、現役の軍人が政権を握っており、市内の雰囲気は一見平穏なようでした。

しかし、いつどこでベトコンがゲリラ攻撃を仕掛けてくるか分からず、気が抜けません。市内にはベトナム兵や米兵であふれ、夜は夜間外出禁止。メコンデルタ地域からの砲声が絶え間なく響き、時々サイゴン市内にもロケット砲弾が撃ち込まれました。そうした砲弾で、私のアパートの近くに住んでいた日本の新聞記者が死亡したりしました。

当時日本大使館は、サイゴン川に近いグエンフエ大通りにありましたが、すぐ近くの米国大使館は、私の着任直前にベトコンの爆弾でやられ、多数の犠牲者が出ていました。それ以後、大使館の警備が一段と厳重になり、同盟国日本の外交官も、米国大使館を訪問する時は、いちいち自動車の底やトランクまで点検され、大変でした(米国大使館はその後別の場所に新築、移転)。

こうした状況を見て、ベトナム戦争への疑問を募らせ、サイゴンの日本大使館への赴任を拒否し、外務省を辞めた先輩もいました。他国の駐在外交官でゲリラ戦の流れ弾に当たって落命した人もいました。

生来、比較的鈍感な私は、独身だったせいもあって、かなり気軽に外出し情報収集活動などを行っていましたが、当然それなりの注意は日頃から払っていました。気の毒だったのは、妻帯者や家族同伴の大使館員で、アパートの寝室の中に土嚢を積み重ねて住んでいる人もいました。

(続く)

(2022年3月28日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。