細川護熙はガラシャの子孫でないが井伊直弼の子孫

月曜日に発売の『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)が大ブレーク。Amazonのすべての書籍のなかでなんと16位。「社会一般関連書籍」の第一位だ。

昨日、アゴラで『現代の皇室の先祖には戦国武将や猛女が目白押し』という記事を書いて少しは貢献したかもしれないが、それが主因ではない。ある方がYouTubeで取り上げてくださったのがきっかけだが、そこから玉突き式にいろいろあったのだと思うがその顛末は少し調べて論じたいと思う。

今日は本書から「近衛・細川家」の項目を少し改変してだが、紹介したい。というのは、再来年のNHK大河ドラマが、「源氏物語」の作者、紫式部が主人公で、吉高由里子さんが演じ、藤原道長との恋をテーマにした「光る君へ」に決まったというからだ。

そして、細川護熙元首相にとって、もっとも大事なご先祖はこの御堂関白道長だというからだ。ある政治家が、この人に、「なにかしようとするとき、細川さんがいちばん考えることは何か」と聞いたら、「あの世にいったときに先祖に胸がはれるかです」という答えだったので、「例えばどなたですか」と返したら、「やはりいちばんは御堂関白でしょうかね」という答えだったと聞いたからだ。

どこまで正確なやりとりかはともかく、彼の政治経歴からしてもそうなのだと客観的にも思う。

(左)細川護熙元首相 (右)藤原道長

源氏物語の時代から日本人は、どろどろとした現実に手を染めない貴人が大好きだ。光源氏の職業はなにかといえば、太政大臣であって、現代で云えば首相なのだが、光源氏は行事を滞りなくすることしか関心はなさそうだ。それでも朝野の尊敬を得ていたようだから不思議だ。

細川護煕の引き継ぐDNAは煌びやかだ。細川家は足利一門でも傍流で、三河の岡崎に土着していたが、「人生五〇年にして項泣きを恥ず」という護煕も好んで口にする名言でしられる室町時代初期の管領頼之が出てから、筆頭大名になった。

熊本の殿様になったのは和泉守護だった分家で、幽斎と忠興の親子が戦国末期から江戸幕府草創期を巧みに泳ぎ切って生き残った。

護煕の母は近衛文麿の娘である。護煕の父である護貞は、舅である文麿の秘書官として活躍し終戦工作にも関わった。護煕は東京で一九三八年に生まれ、神奈川の進学校である栄光学園から学習院の高等部に移り、祖父の母校である京都大学を受験するが二度とも失敗し、上智大学に入る。卒業後は朝日新聞社で記者となるが、ご先祖が殿様だった熊本一区から総選挙に出馬するが落選した。

そこで、こんどは、近衛文麿の孫を看板に参議院全国区から出馬。絶大な人気を誇った石原慎太郎の裏番組として支援も受けて当選した。このころは、近衛は「悲劇の宰相」として人気があったが、晩年の昭和天皇が近衛に対する厳しい評価を口にすることが多くなり、あまり有利な看板ではなくなった。

そんなこともあってか、熊本知事選挙に立候補して当選し、ここで、「くまもと日本一運動」など全国的な視野を加味したユニークな地域作りに成功し、一九八四年には「四全総」原案で示された東京一極集中促進策に反対して朝日新聞に寄稿した小論が大反響を生み、「地方の時代」の代表選手の一人として注目された。

知事は二期でやめ、東京に移っったが、平成四年に日本新党を結成して参議院選挙に望んだ。「我れ、現代の源頼朝となりて驕れる平氏を討たん」といい、小池百合子にサインを求められて「源朝臣護煕」と書いたという。

この細川護熙の先祖を見ると、近衛家は江戸時代初期に後陽成天皇の子を養子に取っている。母親は近衛前久の娘で豊臣秀吉が猶子にした中和門院であるので、近衛文麿までは後陽成天皇の男系男子の子孫だ。したがって、護熙は皇室の男系男子子孫でないが、少なくとも後陽成天皇の女系子孫ではある。

文麿の母は加賀藩最後の藩主である前田慶寧であり、その母の溶姫は、将軍徳川家斉の娘で、輿入れの時に建てられたのが東京大学の赤門である。文麿夫人は豊後佐伯藩主毛利家から輿入れしたが、その母は、井伊直弼の孫娘であった。

ただし、この話を細川首相の官房長官だった武村正義さんにしたら自分が「彦根藩領出身だと知ってたはずなのにそんな話してなかったが」と仰ったので、「立派な先祖が多すぎて井伊大老くらいでは意識にないのでは」といっておいた。

一方、残念なことに、細川護熙にはガラシャ夫人やその父親の明智光秀の血は流れていない。というのは、細川忠興とガラシャには三人の男子がいたが、関ケ原の戦いの時から大坂夏の陣までの複雑な経緯があって、ガラシャは自害、長男忠隆は廃嫡、次男興秋は切腹して三男の忠利が跡を継いだ。

そして、忠興は側室を置いて四男立孝を得て、宇土藩主とした。ところが、八代藩主ののち忠利の男系子孫は絶えたので、立孝の子孫の斉茲が九代藩主となりその直系子孫が護熙であるので、おそらくガラシャの血は流れていない。

一方、陛下にはいくつものルートで、ガラシャの長男である忠隆の血が流れている。それでも形式上の子孫だというので、護熙は坂本西教寺の光秀の墓に参っているから、もしかすると、陛下と細川首相の間で、「先祖の光秀の墓に参ってきました」「あれは私の先祖で総理の先祖ではないのでは」などという会話があったかもと想像するのは楽しいことだ。

いずれにせよ、護熙は意識的には近衛の血の方を強く感じさせるし、本人の気分としてもそうだろう。それだけに、弟の忠煇(国際赤十字赤新月社連盟会長、日本赤十字社社長。夫人は三笠宮甯子)が近衛家を相続したのは、複雑な気分かもしれない。

母親の温子が若くして死んだあと、護貞は熊本藩八代城代で男爵だった松井家から薫子を迎え、異母妹の明子は表千家家元の十四世千宗左而妙斎に嫁いでいる。

つまり細川家をブリッジにして、表千家と裏千家が繋がっているというわけだ。