市川海老蔵と松たか子の曾祖父は饅頭屋の子だった

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家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)の売れ行きが好調だが、ここでは政治家、皇室、旧華族、経済界といった典型的な名門だけでなく、お稽古事、スポーツ、演劇なども扱っている。

そんななかで、歌舞伎の名門を系図に落としてみるとなかなか面白いことに気づいた。名門といっても、どこかでまったくの部外者を養子に迎えて、それで辛うじて優れたDNAの導入に成功していることだ。

とくに、現在の大名跡の継承者である、市川海老蔵と松本幸四郎一家は、いずれも明治から昭和初期まで活躍した希代の名優・七代目松本幸四郎の男系子孫だ。

三人の息子が、十一代目市川團十郎、初代松本白鸚、二代目尾上松緑となったからだ。

十一代目市川團十郎の子が十二代目、その子が市川海老蔵。初代松本白鸚の子が「ラマンチャの男」などで知られた現白鸚、その子が松たか子や現幸四郎、現幸四郎の子が「鎌倉殿の十三人」の木曽義高役で公表を博し、高校中退を決めたことでも議論の種になっている染五郎だ。

ところが、この七代目幸四郎というのは、伊勢出身の饅頭屋の子であった。1870年(明治3年)、伊勢国員弁郡(現在の東員町長深)で、建設業者の子として生まれた。

一家で上京し、饅頭屋をしていたところで、店の客だった藤間流(舞踊)家元の二代目藤間勘右衛門の養子となって厳しく鍛えられた。

九代目市川團十郎となり、市川染五郎、ついで市川高麗蔵を襲名、有望若手として注目され、松本幸四郎を襲名した。

恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物や荒事に本領を発揮した。また舞踊にも秀で、藤間流の家元として活躍し、シェークスピアや現代劇にも取り組み、戦後の1949年に死去するまで現役だった。

この松本幸四郎の初代というのは、元禄時代に市川團十郎の弟子として活躍した人で、二代目は実父は芝居茶屋の和泉屋勘十郎の子で四代目団十郎の兄弟だが、一説によればともに二代目団十郎のこともいう。四代目は養子で血のつながりは切れている。そして、六代目はペリー来航直前の1849年に死んでいるので、1911年に襲名した七代目とは、まったく接点はない。

一方、団十郎家は、明治の名優だった九代目に跡継ぎがなく、婿養子の市川三升(贈十代目)の養子に七代目松本幸四郎の子がなって、1962年になって十一代目を襲名した。九代目が死んだのは1903年だったから59年目の復活だった。

オペラでも普通の演劇でも世襲などしない。歌舞伎で世襲がされる、有名俳優の子は本人が希望すればだいたいそれなりの役がもらえるというのは、特別の才能など求められない低級芸能だという証だと思う。

また、名跡の襲名というのもなんの意味もない。二代目エンリコ・カルーソーとか、二代目サラ・ベルナールなどといっても嗤われるだけだ。せいぜい、誰それの再来といわれるくらいだ。

また、そんなものの、襲名披露だとかいって、大枚を支出したり見に行く観客も正しし文化の理解者とは思わない。