11宮家に皇位継承優先順位は付けられない

font83/iStock

昨日掲載した「皇位継承問題の焦点:宮家について国民が知るべきこと」では、昭和22年に皇籍離脱した宮家はすべて伏見宮家系統だと書いた。北朝第三代の崇高天皇の曾孫に後花園天皇があり、その弟が伏見宮貞常親王であって、その子孫である。

つまり、室町時代中期に現皇室と分かれたので、いくら何でも遠すぎるという人もいる。しかし、幕末に東山天皇の曾孫である光格天皇が即位したときの、対立候補はのちの伏見宮貞敬親王だったわけであるし、その子の伏見宮邦家親王は光格天皇の、孫の貞教親王は仁孝天皇の猶子となり、それぞれ仁孝天皇、孝明天皇の控えの立場にあった。

明治になると、有栖川宮家のほうが血筋の近さや維新における功績などで優位に立ち、大正天皇に事故があった場合や、跡継ぎが出来なかった場合には、有栖川宮家を優先するものと考えられていたようだ。

1879年に大正天皇が生誕されたのち、1889年に旧皇室典範が制定されたが、昭和天皇はまだ誕生されていなかったので、大正天皇(当時の皇太子)に皇子が生まれなかったときや事故があった場合は、有栖川宮家からという前提だったように読める。

その後、1901年に昭和天皇が誕生し、引き続き秩父、高松、三笠宮の誕生があり、さらに、1908年に有栖川宮威仁親王の子の栽仁王が20歳の若さで薨去、さらに、1913年には、威仁親王が薨去された。

しかし、大正天皇の四人の親王が無事に成長されたので、順調に親王が誕生していけば、伏見宮系の出番はなくなるはずで、1920年には、臣籍降下を促進していくことになって戦後の1946年までに12人の皇族が侯爵や伯爵になった。

しかし、逆に言えば、足りなくなっていたときには、原則を変えていくことも想定されていたわけで、1920年の原則によれば伏見宮系は排除されるはずだったというのは、おかしいのである。

また、明治天皇の四人の皇女が1908年~15年にかけて竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮家と結婚した。

いずれにせよ、戦後になって大正天皇の親王を当主とする秩父宮家、高松宮家、三笠宮家以外の、伏見宮家、山階宮家、賀陽宮家、久邇宮家、梨本宮家、朝香宮家、東久邇宮家、北白川宮家、竹田宮家、閑院宮家、東伏見宮家は皇籍を離脱することになった。これらをしばしば「十一宮家」と呼ぶ(東伏見宮家は、昭和22年の皇籍離脱時には未亡人のみ)。

これを順位づけできるかといえば、これが難しい。長子系優先でいうと、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、北白川宮、伏見宮、閑院宮、東伏見宮の順だ。

だが、山階宮、梨本宮、閑院宮、東伏見宮の各宮家はすでに断絶している。北白川宮家も跡継ぎがいない。

また、伏見宮家の本家に当たるのは、伏見宮だし、賀陽宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮家は久邇宮家の分家であるし、竹田宮は北白川宮の分家だ。本人の健康状態とか、母親の出自があるので、長子が跡を継がなかったのである。

一方、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮家は明治天皇の女系子孫であり、東久邇お家は加えて昭和天皇の女系子孫である。また、残りで現在、存続している宮家では、久邇宮家は香淳皇后の実家である。

というわけで、旧宮家のうちどこが優先なのかは、なんとも決めがたいのである。

なお、個々の宮家の説明は、『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)で詳しく書いた。